鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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またこれまで,「松本竣介研究序説ー初期の事歴と作品一」(『学習院大学文学部研究年報第31輯』学習院大学1984年)において,すでに第1期および第2期については論じている。したがって本論稿では紙幅関係もあり,第3期と第4期の概略と第5期を中心課題として論じることとしたい。第3期及び第4期松本竣介が本格的な制作を行い,画家として活動を始めるのは1935年二科展に発表した<建物>〔神奈川県立近代美術館所蔵図1〕以後である。それ以前の作品については,盛岡時代,さらに上京後の太平洋美術学校の教程での作品も,特に際立った特徴の見られない写実的な作風であった。やがてルオーの影響を受け,初入選作品の特徴である,骨太の輪郭線に縁どられた建物をモチーフとした作品を描くようになったのは1935年前後のことである(注3)。この間,生長の家との関係から『生命の芸術」誌の創刊に兄彬と共に携わり,松本は文章を寄稿する傍ら挿絵を描いている。その挿絵には筆に墨をつけて描いた骨太の油彩と同じ様な表現がみられる。さらに引き続き骨太の輪郭線を使った作品は1936,7年頃まで続いており,その特徴は人物像を含まない建物だけの風景が主題をなしている点にある。画風が大きく変化したのはく街>〔1938年,大川美術館所蔵図7■8〕においてであった。この作品では骨太の輪郭線は消え,細い線描による人物と建物が画面の中にモンタージュされるように描かれている。この変化の前ぶれとなる油彩画の制作については,明確にその変化を指摘しうる作品はないが,<街>が発表される前年の1937年二科展に発表された<郊外>(宮城県美術館所蔵)はく建物>からく街>に至るその過渡的なものであると推測できるだろう。この変化は単に松本の気質(注4)といわれる問題ではない。その生成には『生命の芸術』誌と『雑記帳』〔図3〕が深く関係していると思われる。松本は両誌の編集にa.第3期二科時代(1935■1940)注2佐波甫「松本竣介の藝術」『松本竣介画集』美術出版1949年5月Pl8■19 -225-

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