鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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携わりながら素描による挿絵〔図4■ 6〕を数多く描いているが,これらの挿絵は印刷の制約からインクによるペン画が多用されており,おそらく松本の太い輪郭線から細い線描への転換はこの素描の制作が重要な役割を果たしたと思われる。すなわち,印刷上の制約から試みられた素描の細い線によってこれまでの太い輪郭線とは違った表現を発見したのではないだろうか。この細い線の効用をタブロー上で試みようとしたのがく郊外>であっただろう。この頃,1937年12月には『雑記帳』が経済的理由から廃刊され,雑誌発行という仕事を離れ,制作に集中できる環境が整ったことを意味した。1938年二科展にこの細い線を主体とした作品制作のひとつの成果としてく街>が発表されたといえる(注5)。このく街>という作品には「都会風景=建物群」に「人物」がモンタージュされ,画面上で「人物」と「建物」の二つのモチーフが混ざり合っている。この傾向は1941年<画家の像>〔図15■17〕発表まで続き,都会の生活者の情感をリリカルに表わす松本の特徴的な様式となっている。青を主体とした明るい色彩はこの時期の大きな特色であり,特に同一色内での彩度と明度を微妙に変化させ,マチェールを構築する方法は,他の日本人作家にあまり例をみない方法といえるだろう。自分の感情の赴くままに描く表現主義的な方法とは異なるある意味では非常に理知的ともいえる方法から,このような情感あふれるリリカルな都会の心情というものが表現されるのである。しかし,こうした都会の情感を表出する感傷的ともみられる作品はこの時代において,すなわち日中戦争のさ中,対米戦争前夜の緊迫した情勢下で広く一般に受け入れられる素地は残されていなかっただろうと想像される。同時に1941年頃までには同一の主題が繰り返される傾向が強まり,制作の停滞とマンネリズムを感じさせる。以上が第3期の概要である。だがこのような停滞とマンネリズムに次の転機が訪れたのは1941年美術雑誌『みづゑ』への「生きてゐる画家」の発表である。松本はこの前後に突然のごとく小画面の写実表現による自画像〔図13■14〕を多く制作し始める。こうした変化に対応するように二科展に発表していた作品も1941年以降,これまでの作品とは異なる大画面の「人b.第4期戦争期(1940■1945)-226-

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