物」を中心とした写実的な作品に変化した。1941年の二科展に出品した<画家の像>や翌1942年の<立てる像>(神奈川県立近代美術館所蔵)などがそれである。この写実表現への変身はいかにして行われたのだろうか。おそらく,モチーフを正確に写しとるという自画像制作の過程が,具像画家であった松本にとって必然的に写実表現へ向かわせたといえるだろう。すなわち,<街>などにみられたこの抽象性の破棄は自画像の習作過程で準備され,また叙情的な感興は戦争前夜と,こうした状況に対する画家として在り方を問うという自らの立場を模索によって放棄されたと考えられる。これに対して比較的小品として制作された作品は自画像系列の作品の他には建物のシリーズ〔図18■19〕があり,それぞれ建物と人物のモチーフが独立して描かれたものである。これら小画面のモチーフが二科展に発表された大画面の作品に統合〔図17〕されたものといえるだろう。また<画家の像><立てる像>などの大画面の作品の制作意図を探るのは従来考えられるより困難と思われる。反戦的意図であるにせよ,戦意高揚的と捉えるにせよ,現在のところ,どちらに解釈を決するには,その根拠に乏しいものといえる。以上が第4期となる。さてこのように第2期から第4期へと松本の作品は,その制作時期によって作風が日月確に分類されるばかりか,建物と人物の画面上での集合,離散の繰り返しとなっている。すなわち,はじめ独立したモチーフとして現われた建物にはやがて人物像が重なる。その重なった人物は写実的な画風への転換により,小画面へそれぞれ独立したモチーフとして分かれ,それらは大画面系列の作品上に再び統合され表わされるという図式を辿っている。さて戦後については上述のような全体の流れを念頭に置いた上で今少し詳しく論ずることにしたい。がここでは詳論しない。本の作品の一つの特色を示していることは認めるとしてもこの論に単純に与することはできない。注3拙稿「松本竣介研究序説ー初期の事歴と作品一」P65■69 注4朝日晃は松本竣介の特徴として「線の気質」の画家であると述べているが「線」が松注5このほかく街>の成立には,ゲオルゲ・グロスや野田英夫の影響〔図10■12〕がある-227-
元のページ ../index.html#235