鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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この点は改めて一つの課題として機会を得て考察したい。抽象的傾向についてさてここでは松本の戦後期の特徴として認められる抽象画への転換はどのようにして行われたかを考えてみたい。周知のように戦争期においては小画面の系列の作品の制作が行われ,それらのモチーフとなったのは都会風景であり,建物であった。松本はニコライ堂などいくつかのモチーフを繰り返し描いているが,そのなかの一つにくY市の橋>〔図20〕がある。これは現在のJR横浜駅東側にかかる月見橋とその周辺に取材した一連の作品である。松本はこの橋を横浜すなわちY市の橋と名付け描いた。この橋のモチーフが作品に登場するのは,戦前期の1942年頃であり,以後素描と油彩で何度も描かれている。特に戦後においては,空襲によって破壊されがれきとなってしまったこの橋をモチーフに戦前期と同様の構図で描いている。戦前に描かれたものも,破壊されたあとを描いた作品も,海側から橋を正面に捕えた構図に,モチーフの橋がほぼ画面の中央付近に描かれている。またその描法も色彩も制作の粗密はやや見られるものの継続性を感じる。際立った違いを唯一見出すとするならば,それは,破壊される以前の橋と破壊されて形を変えてしまったモチーフそのものの変化であり,何よりもそのことが一番変化したものである。さて,興味深いことに戦前期にあれほど執着するように描かれていた

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