10月15日条)(注2)。春日曼荼羅の初見と考えられる記録を引用する(『維摩会井東寺灌頂記』養和元年(1181)予私相語絵師,奉書始三笠山井南円堂形像,為本尊,常為奉晩礼也。(下線筆者)その図様は,興福寺南円堂本尊の不空絹索観音像の上方に,三笠山という春日の景観を描くものであったと推測される(注3)。さて春日の地は絵画文学の世界では,春日社の神域である以前に,まず名所として周知された題材であった。そして神奈備である三笠山が春日の歌枕として登場するのが,この12世紀から13世紀にかけての時期であったという(注4)。したがって,三笠山を描くことで春日という土地の名を認識させる12世紀末期のこの図様は,「見立て」の原理にもとづく名所絵の伝統に根ざした図様といえる。つづいて『玉葉』寿永3年(1184)5月の記事には,春日宮曼荼羅の祖型と考えられる社頭図の記録が初見する。この時兼実は,弟の一乗院信円のもとより「図絵春日御社一鋪」を取りよせ奉拝している。その図様は不明であるが,建保2年(1214)には,精細な建築描写を含む熊野三山の礼拝用社頭図の存在が記録にみえている(注5)。したがって,「図絵御社」という名称も考慮するならば,養和元年の画像よりは,社殿も含んだより具体的な社頭景観の描写がなされていた可能性は低くないであろう。これらの記録から,春日宮曼荼羅の最初期に,名所絵の伝統に立脚した図様の作品が制作されている状況が推測される(注6)。形成期の春日宮曼荼羅と名所絵との関連については,この時期の絵師の動向が看過できない。鎌倉時代初頭に南都にくだった尊智は,南都絵所松南院座の鼻祖となった絵師である。承元元年(1207)の最勝四天王院障子名所絵の画事はよく知られている。この時の絵師の1人兼康が,新たな絵様をかくために,実際に明石須磨に赴いたことで著名な事例でもある。尊智の画系と目される雌蓮もまた,内山永久寺本堂の名所絵を描き改めている(注7)。名所絵の紙形の蓄積と,名所絵の伝統への造詣とが,こうした名所絵制作を担当した絵師に,不可欠にもとめられる条件であったろう。すなわち,南都絵所座の草創には,仏教絵画は勿論のこと,本格的名所絵もてがけた絵師が関わっていた。春日宮曼荼羅の母胎となった杜頭図は,こうした状況下で制作が開始されたのである。とりわけ尊智が,「図絵春日御社」を所有していた信円との関わりを想定されている絵師であることも特記されよう(注8)。春日宮曼荼羅と名所絵との関連は,以後も継承されていったであろうことが,現存-241-
元のページ ../index.html#249