鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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千野香織氏は,かつて名所絵の性格を考察された中で,以下のように述べられた(注10)。「その土地特有の景物すなわち象徴を画面から読みとり,それによってその土地の名を了解し,そこに楽しみを見出すという絵のみかたは,平安時代に発し,以後途絶えることなく継承されてきた。」礼拝画ではあるが宮曼荼羅もまた,千野氏の述べられるこうした名所絵の伝統の中に胚胎し,形成されていったのだと考える。そして以後,13世紀末にその定型が成立するまでの約1世紀間は,春日宮曼荼羅にとって,定型にいたらない複数の図様が並存する,いわば図様の模索の時期であった。この点については,拙稿を含めすでにいくつかの論考がある(注11)。詳述を避け,以下に要点のみを記す。諸作品中もっとも古い13世紀の根津本は,社殿を低く近接した視点からほぼ正面観で描く。そのため,三笠山や杜頭の各所に祀られている摂末社が,実際の位置関係を大きく変更して画中に集合させられている〔図3〕。また,図様模索期の状況を知る上で,法隆寺本(13世紀制作)が参考になる〔図4〕。本社回廊内全体を,南方からみた姿で描く。そのため本殿は,根津本と同様ほぼ正面観が保持されている。つまり法隆寺本は,根津本と同じ構図を,より高く遠い視点から描いた図様とみることができる。さらに画面最下段に,南東からみた姿の一鳥居を描くため,定型的諸作品ではほぼ垂直に伸びる参道が,ここでは複雑な蛇行を繰り返しながら南門へといたる。つまり法隆寺本では,本殿は南からみた姿で描くことと,画面の垂直軸は東西をしめすこととの矛盾が,やや整合性を欠く図様となってあらわれている。表現技法の上でも,参道や土被に金泥を掃かないなどの点は,やはり根津本と共通する古様性をとどめるものと解される。さて,平安時代以来の日本絵画の風景表現は,ある景物とそれにともなう景趣が表現されていれば図様が完結する名所絵の伝統が支配的であった。そのような伝統の中にあって宮曼荼羅が直面した課題とは,社頭の諸殿舎およびそれらの位置関係,さらには後述するように,その周囲の樹木などまで含む諸々のモチーフを,有機的統一感と相対的な地理的正確さをもって描き,なおかつそこには景趣も表現されていなければならない,というものであった。この課題は,13世紀の絵師にとって,目新しくかつ困難な造形課題であったにちがいない。先行する種々の絵画史的伝統を参照し,その解決にあたったものと思われる。その際,解決の有効な糸口を与えたのは,仏教浄-243-

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