土図であったと考えられる。鎌倉時代,神社の社頭を浄土とみなす信仰がおこなわれるようになる(注12)。春日の場合そうした信仰態度は,明恵,貞慶という高僧に端を発し,以後流布した。延慶2年(1309)の春日験記の「杜壇あに浄土にあらすや」(巻20第2段)という文句は周知している。さらに「心をすまして春日の御宝前のありさまを観念してなみたをなかしけるに」(巻8第7段),「しぬとも御笠山をおかみたてまつらん」(巻13第6段)などの記述も,そうした思潮を反映するものと考える。宮曼荼羅の図様模索期は,そうした社頭浄土観の成熟期に対応している。この信仰史的な時流が,社頭を此岸の浄土として表現するという構想と,その実現のために仏教浄土図の絵画手法を取り入れる,つまり社頭を浄土として荘厳するという着想を促したものと考えられる。すなわち,宮曼荼羅の成立は,仏教浄土図の触発をうけることで果たされたのだと言える。そして,成立時のもっとも整った図様をしめすのが,1300年制作の湯木美術館本である〔図5〕。すなわち湯木本は,実景描写と荘厳という,相反する2つの志向がもたらす緊張の上になりたっていた。その図様をみると,画面上部に様式化された三笠山,春日山,若草山を描き,その下に広がる社頭には,ほぼ西側からみた諸殿舎を整然と配する。参道は画面中央をほぼ垂直に伸び,水平にかさなりあう霞と,幾何学的な調和をつくっている。参道や土波には,杜頭浄土にふさわし〈金泥を掃く。そして,満開の桜や梅などを随所に配し,春の景趣もまた表現されている。先の造形課題にたいする南都絵仏師の,約1世紀をかけた見事な解答を,湯木本の画面はしめしている。また,こうした定型的図様の成立とあわせ,その呼称として「曼荼羅」という名称が定着するのも,この1300年を前後する時期であったと考えられる。すなわち,湯木本の時期に春日杜頭図は,固有の名称と,以後の範となる図様・表現形式とを獲得するにいたったのである。さて,宗教画における定型図様の成立とは,ある宗教的な概念をあらわす1つの「図像」が定まったことを意味するであろう。景趣あふれる杜頭の景は,名所であることを越えて,神々しい此岸浄土の図像へと転化したのである。以後宮曼荼羅は,杜頭の風景を図像として継承していくこととなる。では,その継承の実態はいかなるものであったのだろうか。-244-
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