1つめの表現上の要請ということに関しては,古絵図のことが想起されよう。絵師に,植物モチーフもまた,現実に即した樹種の選択と布置が求められたであろうということ。いま1つは,春日宮曼荼羅は礼拝画であるから,杜頭の風景もまた,図像の一部として正しく継承される必然性があったということ。この2点である。か絵図を製作するにあたって,実際にその土地を踏査し,特徴的な自然景モチーフを画中に描きこむことは,一般的な事柄として了解されている。その土地らしさをあらわすために,踏査にもとづく視覚体験を,図様に反映させるのである。絵師の実地踏査の1例として,春日社の記録をあげる(『中臣祐明記』建久4年(1193)条「絵仏師社頭指図仕事」)(注16)。八月一日,旬御供如例,(中略)但御供役過後,大宮於中門会(絵)仏師二人召,右衛門尉泰元御殿並回廊社頭へ宅共指図ス,一人ハ信界,今一人不知名,宮曼荼羅においても,絵師は社頭を絵画化する際,つまりオリジナルの紙形を作成する際に,踏査にもとづく社頭の指図や,建築指図などをもとに,全体の図様をつくったことが想像される。建築モチーフに限らず,多くの植物モチーフにもみられるつよい伝承性が,こうした図様形成のプロセスを推測させるのである。鎌倉時代初頭に,「云々説」では絵様はかきがた<,実際に名所を見に赴いた兼康の事例が,あらためて想起される。平田寛氏の指摘にあるように,そこで完成された図様は,「後代之談Jとして,以後の新たな規範となる(注17)。第1章で,定型図様の成立は,1つの図像の確定であると述べた。宮曼荼羅において,その図像的な規制力は,風景描写にまで及んでいた。ここでは風景は,紙形により継承されるべき,図像なのである。名所絵の伝統の中で形成されながら,「図像としての風景」という相対的に独自な風景表現のあり方を,宮曼荼羅はうみだした。名所絵伝統の景趣の表出と,礼拝画として求められる図像的正確さ。宮曼荼羅は,この背反する2つのベクトル間の緊張の中で,観照するにふさわしい神々しい風景表現を造りだしたのである。さて,これまで数度紙形のことにふれてきた。風景そのものが図像として継承されるのは,直接には紙形の媒介によるものである。そして,杜寺の風景を描く絵画は,宮曼荼羅に限るわけではない。秦致貞の太子絵伝を古例とし,とりわけ鎌倉時代の各種の宗教説話画に,多くの杜寺景観は描かれている。それらの中には,現存する社寺曼荼羅と共通の紙形によった可能性を指摘されるものもある。杜寺を描く絵画は,ひろい裾野を有していた。そして杜寺をかいた紙形が,それらの水脈となっていた。宮-251-
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