ていること,さらにH・ディートランという日本美術品を取り扱っていた店の広告〔図5〕があることなどから,彼らが日本の文様を知り得ることができたと推察することができる。しかし「ミュルーズ産業協会紀要」第11号によると,この地においては日本の美術品が既に1837年の日本の開港以前にも伝わっていたことが記されており(注5),それによるとナンシーのセザー氏という人物が日本と中国の美術品をミュルーズ産業協会に寄贈したと報告されていた。このように早くからミュルーズでは日本美術について知識を持っていた人が幾人かいたものと思われる。さらに1877年京都からリヨンヘ向けて伝習生として送られた稲畑勝太郎が,その後ショーンノプのために日本の図案集を1894年に送ったという記録もある(注6)。加えてもう一つ考慮しなければならないことは,ミュルーズがオランダヘ向けて綿布の輸出をしていたことや(注7),中国との間に染料の開発のために交流があったことである(注8)。オランダ,中国経由で日本の蚕の情報は早くから伝わっていたので美術品なども同時に伝わっていた可能性は考えなければならないだろう(注9)。ところで,ミュルーズのデザイナーたちはなぜ日本的な染色品を製作する必要があったのだろうか。このことについては「19世紀ミュルーズの産業と歴史」(注10)の中でミュルーズの染色業者エイルマンが1867年に日本に向けて毛織物の上に非常に巧妙なデザインを施したものを作ったと記されていることなどから,日本へ向けての輸出用として製作が行われていたことがあげられる。実際,私の見たところ,美術館に所蔵されている日本様式の染色品のほとんどはモスリンであった。これは着物の下着として当時の日本で十分活用できそうなものばかりであった。日本の開国が1854年,そして60年代には日本様式のデザインが既に現れ,1867年には日本への輸出を開始するというこの一連の動きは,日本市場へ向けての非常に着実な対応であったと言える。つまり,ミュルーズではジャポニスムは市場拡大のための経済的な理由から始まったと考えた方がよさそうである。さて,その後ミュルーズは1870年の普仏戦争の結果ドイツヘ割譲され,ミュルーズの染色業はしだいに衰退していくことになる。しかし,ミュルーズ産業協会は,常にフランスをはじめ各地の産業情報に敏感で,同じ織物の産地であるリヨンの商工会議所などとは互いに情報の交換を続けたのであった。それは,リヨンの商工会議所の重要メンバーであったナタリス・ロンドがミュルーズに絶えず染織品の見本を送っていることなどからもうかがえる(注11)。また,それ以前からもリヨンとミュルーズは花の織物のデザィンにおいて交流があったこと,ミュルーズの捺染業者の支店がリヨンにも存在した-19 -
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