3.清の花鳥画の成立と展開構図についても,高釣の「四季花鳥画巻」は,桜や薔薇梅の枝を巻物の展開方向に合わせて緩やかに伸ばし,そうした枝を縫って鳥が行き来している。また鄭培の「牡丹図」は,掛軸の右下から左上にかけて岩,赤い牡丹,薄紅色の牡丹,白牡丹と続くが,この構成は基本的に熊斐,宋紫石,抱ーと変わらない。このように,南萩画の受容においては,その写実的な筆致に加えて,モチーフや曲線を生かした構図も日本の画家の学ぶところであったことがわかる。こうした傾向は,南藤派以外の画家にもみられ,司馬江漢の「花肝草虫図」など,その顕著な例といえよう。以上のように南禎派および長崎派の作品を整理してみると,写実的な筆致とともに構図やモチーフも重要な要素であり,この点において,円山四条派も抱ーも実はその影響の延長線上に位置づけることが可能なのではないだろうか。ところで,繰り返すがそもそもこうした南蹟派の花鳥草虫画の特徴は,いうまでもなく北宋以来の伝統的な中国花鳥画の得意とするところであり,また常州草虫画の系統をひくものでもある。その成り立ちを振り返れば,北宋で徽宗皇帝の画と伝えるような写実的な花鳥表現が院体花鳥画として定着し,南宋では李迪などがでて,さらにこれを確立した。一方北宋後期ころから常州地方を中心に栄えた常州草虫画は輪郭線を用いない没骨の技法で写実的に草花虫魚を描き,以来院体画と並んで花鳥表現の一様式となった。南宋の「葡萄垂架図」(東京国立博物館蔵)はそうした中で,特に鋭い観察眼で虫をとらえたとして名高い作品である。元では銭選の「花虫図巻」(フリアギャラリー蔵)などがあり,昆虫が精緻に草花のなかに描き込まれていることがわかる。また明では呂紀が構築的な構図の花鳥画を手掛ける一方,呂敬甫が濃彩の草虫画で名を高めた。清になると花烏画の担い手として,清初に憚南田(1633■90)が出,18世紀中頃にはイタリアの宣教師郎世寧(1688■1766)が西洋の写実画法を伝えている。二の頃南藉は清ではほとんど知られていなかったが,長崎に来日して日本に新風を吹ぎ込んだとされているのである。しかし南蹟以前にも日本に輸入された清画はあるはずで,広く清の花鳥画のなかで南頻をとらえ直す必要があると思われる。そこで清の花烏画についていくつか作例をまげてみたい。金曜の「花虫図巻」(岡山博物館)は,薙正7年(1729)の作である。草木や花が曲--265-
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