らの作品群は,主題,様式,パトロンとの関係等々,オランダ古典主義絵画の展開を考察する上で,看過できない問題をはらんでいる。従来も優れた研究がなかったわけではないが,個別的なアトリビューションやイコノグラフィーの問題が主体で,17世紀オランダ絵画史との体系的な関連が徹底して問われたことはなく,現時点で研究対象として取り上げる意義は十分に残されていると考えている。2.ハイス・テン・ボス建設とオラニエの間の絵画群注文に至る経緯ハイス・テン・ボス建築のは,1640年ころ,当時のオランダ総督フレデリック・ヘンドリックの妻アマーリア・ファン・ソルムスの構想に始まる。その理由はなお定かではないが,20歳年上の夫の健康に不安があったこと,なお40歳の自分が長い未亡人生活を送るであろうことを見越して,誰にも煩わされぬ安らぎの場を確保しておこうとしたのではないか,と推測されている。結局,この構想は夫フレデリック・ヘンドリックの賛成を得,資金や用地の確保,設計図の用意が着々と進んでいったようである。設計にはピーテル・ポスト(1608-1669)が起用され,横長のホールの周囲に各部屋が付属するという第一設計案が,1645年の5月以前に提出された。しかし,すでに7月20日にはヴェネツィア風ヴィラを思わせるギリシャ十字形の集中式建築に設計変更されている。建築面でのアドヴァイザーを務めたヤーコプ・ファン・カンペン,計画全体のアドヴァイザーであったハイヘンスの示唆によるものであろう。どちらもイタリアで愛されていたパッラディーオ,スカモッツィの建築に造詣の深い人物だった。設計図完成から2ヵ月もたたぬ1645年9月2日,起工式が行われ,同年10月2日には建築作業のための公告が出された。工事は順調に進んだ。少なくとも1647年3月14日に総督フレデリック・ヘンドリックが逝去するまでは。ピーテル・ポストがアマーリア・ファン・ソルムスに宛てた手紙によれば,当時,すでに建物の主要構成部分はほぼ完成の域に達していたが,アマーリア・ファン・ソルムスは,夫の死に直面し,自らの休息の場として考えていたその建物を,夫の輝かしい事績を顕賞する廟堂へと変更する決心をしたようである。ちなみに,ハイス・テン・ボスなる名称はハイヘンスの考案であった。-270-
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