鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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3) リヨンの絹織物とジャポニスム(1) ナタリス・ロンド氏の貢献(2) リヨンの織物デザイナーことなど(注12)この二つの都市が互いに結びついていたことは確かである。フランスでは,18世紀からのシノワズリーの流行から中国の美術品に関する情報は既に伝わっていた。しかもリヨンと広東との間には蚕種や生糸の貿易が行われていた。19世紀後半,日本の開国後は,リヨンと横浜との間で生糸貿易が開始され,横浜の生糸会社の支店がリヨンヘ開かれるなど非常な勢いで貿易が行われた(注13)。その一つの理由としてヨーロッパの蚕に微粒子病という病気が伝染し,どうしても健全な蚕を他国から入手する必要があったからである。もちろん,生糸と同時に日本の絹織物も輸入された。ところで,リヨンで日本様式の絹織物が製作された経緯については,ナタリス・ロンドの役割を抜きにしては語れない。彼は1854年にはオランダ経由の江戸時代の布見本帳を既に入手し,日本の文様についての知識を持っていた(注14)。しかも彼は約50冊程の美術に関する著書があり,その内の数冊は染織に関するものである。また,彼はリヨンの商工会議所の重要なナンバーの一人であって,パリ,リヨンの万博では選考委員の一人として特に染織部門について報告している。さらにリヨンに美術館を建設するにあたって各国を視察し,中国へも派遣されたという人物であった(注15)。とりわけ,彼はリヨンに産業美術館の必要性を痛感し,イギリスのサウスケンジントン美術館を手本に現在のリヨンのいくつかの美術館の構想をたてた。1860年代のリヨンでは,デザイナーの中には,日本様式の織物のための下絵を描いていた者がいた。彼らの作品は現在,リヨン織物美術館,リヨンの製絹業の老舗プレルやタッシナリなどの布見本などから確認できる。これらの図案の特徴は,全く日本の図案の模倣のものか,非常に巧妙にヨーロッパ化させたもののどちらかである。特に1889年,1894年の万博出品物の織物は,珠玉の作品と言えるだろう。それらは一見したところ日本の影響はほとんどわからないが,菊や燕のような日本的な動植物をテーマに陰影と空間表現を駆使しているのである。ところで,デザイナーの多くはリヨンのエコール・デ・ボザールの卒業生で,彼らは「花のクラス」に属していた。このクラスからは,特に花を描いたことから,染織などの応用美術に進む者,あるいはリヨン派として画家になる者の両方が育った。リヨン派の絵画の中には日本の文物をモチーフにしたものがいくつかあるが(注16),彼らが,同窓生のデザイナーと情報交-20 -

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