4.作者の選定一方作者の選定であるが,これについても,別紙資料5のようなハイヘンスとファン・カンペンによる二つの草案が,オランダ王室古文書のなかに残されている。二つを比較すれば一目瞭然であるが,カウエンベルフとデ・ブラーイを除けば,ハイヘンスの予定していた作家のすべてがファン・カンペンの草案にも登場する。一方,ファン・カンペンの草案にあってハイヘンスの草案にない画家はヨルダーンスとリーフェンスの二人である。この二つの草案のどちらにも予定画家として名が挙がっていないのは,当の草案の起草にあたったファン・カンペンに限られる。いずれにしろ,ハイヘンスとファン・カンペンが相互に考えを交換しつつ,候補者を絞っていった様子が窺える史料である。因みに,フランドル出身のクレイヤーについては,信仰上の理由から注文に応じられないとの返答があった。セーヘルスについても,記録はないが,同じ理由が推測されている。それでは,いかなる基準のもとに作者の絞り込みは行われたのであろうか。まず気がつくのは,総督周辺でかつて行われたホンセラールスデイク城(1621年),レイスウェイク城(1630年)などの装飾の際に注文を受けた画家たちの多くが,ここでも顔を揃えていることである。いずれも,ュトレヒト派やハールレム派に属する画家たち―ーファン・ホントホルスト,リーフェンス,デ・フレッベル,ファン・カンペンであり,イタリア伝来の物語画を理想化した人物を中心にまとめ上げるのを得意としていた。おもしろいことに,いわゆる「17世紀オランダの写実的画家」は,一人も姿を見せない。17世紀オランダ画家の代名詞とさえ言えるレンブラントの名前もない。ファン・ホントホルストらは過去に大画面の装飾を手がけた経験が買われ,選ばれたのであろうが,ハイス・テン・ボスではそこにファン・エーフェルディンゲン,デ・ブラーイなどの新顔が加わっているところを見ると,しかもそれら新顔が典型的な古典主義様式の画家であったことを考え合わせると,人選の理由がむしろ彼らの得意とする様式の方にこそあったことは明らかであろう。ちなみに,ファン・エーフェルディンゲンは,ファン・カンペンが設計したアルクマールの大教会のオルガン扉を飾る絵画を,ちょうどその頃,ほかならぬファン・カンペンの家で制作していた。こうした人間関係も,画家の人選に少なからぬ影響を与えたに違いない。もう一つの注目すべき点は,フランドルの画家,とくにリュベンスにゆかりの作家-272-
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