たちへの注目であろう。最も重要な作品くフレデリック・ヘンドリックの勝利>(32) は,リュベンスの最も優れた弟子の一人,ヨルダーンスに任されている。さらに横長の大画面(14)をはじめ計6点(5,6, 10, 23, 29)の注文を受けているのも,リュベンスの弟子であったファン・テュルデンである。このほか,サウトマン・ウィレボワールツもリュベンスの弟子ないしは模倣者,そしてゴンザレスはリュベンスの一番弟子ファン・ダイクの模倣者として知られる。ハイヘンスが自伝のなかで,ネーデルラントの優れた画家としてオランダとフランドルの画家を分け隔てなく挙げているのはよく知られている。つまり,リュベンスといえども,当時のオランダ人にとっては「同国の人」という思いが強かったということであろう。1647年,フレデリック・ヘンドリックの事績を顕賞するプログラムを作成するにあたり,ハイヘンスやファン・カンペンの脳裏に,同じような仕事をマリー・ド・メディシスあるいはチャールズI世のためにすでに成し遂げ,並ぶ者なき名声を得たリュベンスが生きていればという思いが何度もよぎったのではないだろうか。周知のようにリュベンスは1640年にその生涯を閉じている。リュベンスの高弟でイギリスに活躍したヴァン・ダイクが,二番手の候補になるところであるが,彼は師の後を追うように1641年に没している。宮廷好みのこの二人のフランドル画家は,イタリアの理想を北の地に展開した画家として,オランダの画家,絵画愛好家に高く評価されていた。ファン・カンペンとハイヘンスが,二人の「代打者」として,もう一人の高弟ヨルダーンスにまずは目を向け,さらに二人の周辺作家に白羽の矢をたてたのも無理からぬところであろう。5.作品を特徴づける様式について作品の注文にあたり,すでに触れたように,ファン・カンペンはかなり細かい指示を各画家に与えている。当時,フランドルで第一人者をもって任じていたヨルダーンスにとり,この指示は煩わしいものに思えたに違いない。事実,彼は,アマーリア・ファン・ソルムスに宛てて苦情の手紙をものしている。ヨルダーンスは,結局,ファン・カンペンの指示通りに制作することになるが,それでも彼の作品には,きわめて伸びやかで,自在な制作態度が感じられる。大画面のくフレデリック・ヘンドリックの勝利>ではなかなか把握しにくいが,他作家の作品と同じサイズのく時の寓意>(33)を見れば,この点は明々白々である。勢いを感じさせる筆遣い,動きのある構図,鮮-273-
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