鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
282/475

やかな色遣い,どの一つにもヨルダーンスらしさが自然に滲み出ている。この伸び伸びとした制作態度は,実はファン・テュルデンら,フランドルと関連の深い他の作家の作品にも見て取ることができる(たとえば14,23, 29, 5, 6)。大画面の制作に慣れていたということもあろうが,むしろ,要求されているところが自らの様式とまさに一致したからこそ,そうした雰囲気を漂わせることになったのであろう。リュベンスという大家をモデルに持つ作家たちは,総督の事績を顕賞するという公の注文においてさえ,ひるむことなく堂々と自らの様式を押し出すことができたのである。一方,深刻なリュベンス経験を持たぬオランダ画家たちの作品はといえば,あまりのぎこちない仕上がりに初めはほとんど声を失う思いさえする。彼らは,ュトレヒト派,ハールレムのアカデミストの,まさに中心的人物ではあるが,この種の大画面の歴史画を制作する機会にフランドル画家ほど恵まれてはいなかった。かてて加えて,イタリア志向の強いファン・カンペンがごく近くにいて,さまざまに制作に介入してきたことであろう。各画家は,寓意と象徴に満ちた図像を理想化した人間表現を軸にまとめ上げるという要求を満たすため,一種の自己規制を強いられたのではないか。おそらく,そうした自已規制の念が最も強かったのが,ハイヘンスとともにプログラムを作成したファン・カンペンであったと考えられる。彼の名は,上に挙げた依頼作家の草案には出てこない。オラニエの間を飾るいかなる作品からも彼の署名は見つかっていない。しかし,少なくとも6点(2,7, 8, 15, 18, 30)は彼の手に帰してよいであろう(以下,署名のない作品の作者同定は,小林自身の判断によっている)。手掛かりは,<芸術と学問の寓意>(15)にある。その様式がファン・カンペンの他の作品に酷似しているばかりではない。メルクリウスの左手の後ろに描かれた建物が,当時ファン・カンペンが設計を手がけていたアムステルダム新市庁舎にほかならないからである。この種のモティーフを画中に収め得たのは,当の設計者であるファン・カンペンをおいてほかにはあるまい。この作品を出発点にすれば,他の5点の作品にもおのずからファン・カンペンの手が認められることになる。興味深いことに,ファン・カンペンの作風はときにファン・エーフェルディンゲンに酷似する。ファン・カンペンばかりではない。デ・フレッベルしかりである。特に彼ら二人の壁画(2,15, 22)にその傾向は強い。ファン・エーフェルディンゲンも壁画(13)を担当していることを考えあわせれば,彼ら三人が,互いに「現場」であ強い様式上の影響を受けたというほどの意味-274-

元のページ  ../index.html#282

このブックを見る