換することは十分可能であったろうし,リヨン派の画家は,ある時はデザイナーとして働いた(注17)。織物デザイナーは,基本的には自分たちの下絵を織物会社に買ってもらうというシステムをとっており,全く独立していた。そのため,老舗の織物会社においてさえもデザイナーに関する記録がはとんど残っていない。彼らの名前をつきとめるところまではなんとか到達しえても,当時どのような活動をしていたのかを知るのはきわめて困難であると言える。その中で特に気になったのはレイボーというデザイナーである(注18)。彼は1862年にリヨンの織物美術館に日本の染色布をいくつか寄贈しているが,その中の一枚〔図6〕は,後の1867年にミュルーズのスタンバック・クークランエ房のための下絵〔図7〕としてデザインされたものと全く同じものであった(注19)。それはシュヴァルベルグのコレクションの中の一つであるが,リヨンのデザイナー,レイボーとミュルーズのシュヴァルベルグが交流があったものなのか,あるいは別のルートで同じものが双方に伝わったのか今のところよくわからない。日本様式のデザインを手がけたデザイナーとしては他に,プレルと取引のあったマルタン,ルー,カルボスキー,セッション,コロナ,フルール(注20),タッシナリと取引のあったルルーディエ,ルノー,などがあげられる(注21)。また,プレルの顧客としてはS・ビングがいたし,タッシナリの顧客としてはオートクチュールのウォルトがいた。ビングと日本美術の関わりについてはよく知られているところであるが,ウォルトが1881年にタッシナリに注文した織物は三日月を重ねた紋のような非常に日本的なものであった(注22)。さらに,ウォルト自身も日本美術についてかなり関心があったようで,1889年の万博に出品された日本の美術について感想を述べているし,日本の染織についても知識をもっていた(注23)。リヨンの商工会議所ではナタリス・ロンドを中心に,美術館建設のために染織をはじめ少しずつ各国の美術品の収集に努めていた。日本関係のものを整理すると以下のようになる。4) リヨン商工会議所の日本美術コレクション1862年レイボーが日本の染色布を寄贈1870年シャブリエ氏が日本の皿を寄贈1875年フォルチュニイのコレクションであった日本のマント?をスピリドンより購1878年ロンドが日本の絹を寄贈入-21-
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