は「魯迅の版画芸術の啓蒙活動が,各地域で発芽を見る段階で,中国の社会的状況が彼ら版画家達と深い関わりを持っている。そして,中国の独自性を持った版画芸術の展開がなされる。それは,中国の近代版画芸術の発展は,正に当時の中国の社会状況とは切り離して語ることはできないと云うことを示唆している。つまり,その当時の社会的状況が重要な役割を果たしているので,一概に魯迅に限定して,語るものではない」と云う意見である。だから,その発展段階における社会状況を,些少なりとも考慮に入れて欲しいと,彼らは望むのである。例えそれを考慮したとしても,その源は魯迅であることには異義を挟むことはできない。(注1)1946年(民国35)『改造評論』創刊号「中国木刻の発生と発展,その抗戦中の活動」陳煙橋魯迅は1927年に許広平と共に,広州から上海に到着し,1936年10月19日に,上海の病院で許広平,周建人らに見取られて亡くなるまでの上海での10年間を,この地,上海を基本的には(1929年に北京に赴き,燕京・北京大学で,1932年に北京に赴き,北京・北京師範・輔仁の各大学と女子文理学院で講演を行なうを例外として)離れることなく過ごした。正に魯迅の終焉の地が上海となった。魯迅は亡くなる11日前に,上海八仙橋基督教青年会で開催されていた「第二回全国木刻聯合流動展覧会」の会場に現われ,多くの版画家達と懇談するのだが,その時のスナップ写真が残っている。その写真に登場している魯迅の表情は,温和で人間らしさを浮かび上がらせた,豊かな表情を持った写真である。そこから察せられることは,亡命の地と雖も,上海での10年間は魯迅にとっては,意義ある日々であったことが推測できるのである。その意義ある10年間に魯迅は,美術の普及を心がけた。中でも取わけ印刷美術,特に版画芸術に多くの力を注いだ。冴えわたる文筆活動で論戦を繰り広げ,物事を客観的姿勢で取らえ,何時も冷静な視線を現実に投げ掛けていた魯迅が,ー変するかの様に,上海での美術活動への接近,何よりも版画芸術への思入れには,並々ならぬものを感じさせる。それは,直接的で情熱的に若い版画家の育成に参画していく行動から見てとれるのである。その育成過程に訪れた,前述の「第二回全国木刻聯合流動展覧会」での,若き版画家達との懇談は,厳しい発言(注2)を行なっているのだが,しかしその中にも,自分が為してきたことの成果の前に立ち,将来に託すべきものが見えたのではなかろうか。きっと,それだからこそあの温和な魯迅の表情があったのである。それだけ魯迅は版画芸術に-286-
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