懸ける思いが強かったと考えて良いと思う。(注2)1976年(昭和51)『魯迅美術全集下巻』張望編,小野田耕三郎訳(1936年(民国25)「1936年10月8日講演,陳煙橋の筆記による『魯迅と木刻』より抄録」)一木刻でもっとも大切なのは,素描の基礎がよくできているかどうかです。作者は必ず毎日,屋外かあるいは室内で速写(スケッチ)を練習しなくてはなりませんし,そうしてこそ進歩があるというものです。屋外での速写はもっとも有益です。何の題材にかかわらず,出会ったらすぐ書くことです。速写は相手がもとの姿態に変ったら,すぐ筆を措きます。現代の中国木刻家は,大多数が人物の素描に対する基礎が不十分であり,かようにいともたやすく見出せます。今後は各作者がこの方面に大いに努力されるよう希望します。さらに作者の社会的経験が浅くて,観察が不十分であれば,偉大な芸術作品を創り出す方法はありません。また芸術は真実であるべきで,作者が故意に対象を歪曲するというのは,してはならぬことです。だからどんな事物に対しても,必ず正確に観察すべきで,その本質を見抜いてから筆を下ろすのがよいのです。農民は純朴です。たとえばかれの顔じゅうをあかぐろく塗りたがるとしたら,それはわざと大げさにするもので事実に合わぬものです。一魯迅は幼少の頃より,民間画(年画),絵入本等々に興味を示し,20代の頃より画集(版画集も含む)の収集に心がけ,多数の画集,絵入本を所蔵していた。更に孫文が臨時大総統の臨時南京政府で教育部に勤め,孫文に替わって哀世凱が臨時大総統になり,政都を南京から北京に移したおり,魯迅はその臨時北京政府のもとで,社会教育第二科科長として活躍した。その北京時代の1913年には,具体的な美術活動として『美術普及に関する意見書』(注3)を起案するなど,早くから美術の世界に心を開いていたが,それはあくままでも行政官としての立場からであった。その魯迅が一般民衆と関わって美術活動を積極的に開始するのは,1927年以降で上海での生活の中からであった。それでは,上海での美術活動を版画芸術を中心に見てみよう。魯迅は,当時上海北四川路説盛里にあった内山書店から,永瀬義郎著『版画を作る人へ』を購入している。それが魯迅が初めて手にした版画の技法書であり理論書である。次に旭正秀著『創作版画の作り方』,小泉癸巳男著『木版画の彫り方と刷り方』を内山書店から入手している。以後,魯迅は海外の美術情報の多くは内山書店を介して入手することとなる。そし-287-
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