鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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1931年(民国20)に内山嘉吉を版画講師に迎え,魯迅自らが,版画を志望する青年たち13人を集め,さらにみずから通訳をかってでて,上海長春路の日本語学校で,「木版て,内山書店の主人内山完造とは親密な関係を生涯維持することとなるのである。更にオリジナル版画の入手については,1929年に魯迅自らが,我国の近代版画芸術の関西地区の拠点であった,神戸の「版画の家」(主幹山口文吉)に手紙を書き,機関誌であった版画同人誌『HANGA』5冊(第3,4, 13, 14集,特集号)を2年後の1930年に手にしたのが最初で,同年には当時ドイツに留学していた徐詩答を通して,ケーテ・コルウィッツ画集5種,ゲオルグ・グロッス画集1種が早い時期に手にした作品と思われる。さて,魯迅が近代版画芸術を中国国内へと,積極的な啓蒙活動を開始したのは,1928年(民国17)に,柔石,王方仁,雀慎吾らと「朝花社」を作り,魯迅が収集していた外国の版画をまとめた版画集(『藝苑朝華』5集)を発刊し,広く外国の版画家の作品を,中国国内の作家達に紹介する活動が,最も早い時期の活動の一例である。そして,画講習会」(暑期木刻講習班)を開催した。本講習会は,中国における近代版画の技術講習会としては,最初のもので且つ画期的なものであった。更に,魯迅が直接的に彼ら青年達に接しての,版画家育成の行動にでたことは,何時も客観的立場を取ってきた魯迅を知る者にとって,驚異的なことであった。それは又,魯迅が中国国内に,国際的に通用する近代版画芸術の育成に,どれだけ強い思いを馳せていたかの証でもある。そして,本講習会に参加した青年版画家達が,以後の中国の版画界に大きな影響を与えて行くのであった。魯迅が上海に来てから,木版画講習会が開催されるまでの4年間には,先の『藝苑朝華』を始めとして,メッフェルトの版画『セメントの図』を発刊したり,内山完造とともに「世界版画展覧会」(注4)を上海狭思威路の購買組合の2階で開催するなどの活動の他,日本,ロシア,ドイツ,イギリスなどの国々で活躍している,現代版画家達の作品の収集を試みるなどして,外国の版画作品の収集に執着を示し,優れた作品を中国の版画家達に紹介して行こうという姿勢を堅守していた。またその一方では,版画のことばかりでなく,各所で美術講演を行ない,さらには『近代美術史潮論』(板垣鷹穂著)などの各種の美術書の翻訳を行なうなど,美術一般の啓蒙普及活動にも精力的な行動を取っていた。その行動は,今までの魯迅に見られないほどに活発なものであった。魯迅は,国際都市上海に集積されてくる各種の情報を,魯迅本人の眼を通-288-

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