次に同一のイメイジを多数の人々が共有できるという,版画ならではの複数性という特質は,当時の社会的状況下にあって,彼ら版画家達が社会参加をする為の,重要な武器となって,民衆の中に迎え入れる役割を担うのである。その特質を積極的に展開した版画家達は,1949年に中華人民共和国が成立するまでの期間,中国各地に版画運動を精力的に展開し,版画家なくてはできない社会への参画を組織した。1930年代の中国は,諸外国の侵略を受け,中でも日本の侵略行為は激しいものであった。そのような時代的背景の中にあって,中国人民の心の中には,救国愛国への熱情が彬群としてわきおこり,さらに中国内に深く抱え込んでいる,階級社会の矛盾が露出されるに至る。中国の知識層の積極的な活動の基に,魯迅に指導された版画家達は,激烈な左右の対立を経験し,克服する中から,中国国内の労農層の解放を提起する。そして,人民解放へとその思いは傾斜して行き,積極的に解放運動に参加し,新生中国建設に身を挺するのであった。2.環としての木版画1935年,魯迅は青年木版画家の一人に宛てた手紙の中で次のように書いている。「しかし,考えるのですが,人間は進化の長い綱の一つの環であって,木版画はそれ以外の芸術と同様に,その長い道程において環としての任務を尽くして,奮闘,向上,美化といったさまざまな行動を助けているのです」(6月29日,唐英偉宛書簡)(注1)。ここには魯迅の晩年の,人間,芸術そして木版画についての思考が簡潔に語られている。小論の目的は,このような形で語られるに至るまでの魯迅の,木版画を普及させるための悪戦苦闘の姿を,当時の印刷技術との関連において素描することにある。そして,小論では,次のようなヴァルター・ベンヤミンの思考を,常に念頭に置きながら考察を進めたい。「大衆芸術の研究は必然的に芸術の複製技術の問題に通ずる。『それぞれの時代に相応して特定の複製技術が存在する。それらの複製技術はそれぞれの〔時代の〕技術的可能性を代表しており,……当該の時代の必然の帰結である』」(注2)。大衆芸術としての版画芸術は,広い意味において複製技術のひとつとしてとらえる事ができる。そして,当然ながら,版画芸術をまったく独立した芸術の1ジャンルに限定してしまうのではなく,広く同時代の他の複製技術との連関において論じる必要があると考える。-294-
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