鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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北欧の文学を紹介し,外国の版画を輸入する」ことにより,「中国に質実剛健な文芸」を育てることにあった。復刻でもなく,「作者が刀を握って,板木に向かい直接刻む」ことによって生み出されるいわゆる「創作版画」を紹介し,「精気あふれる作家と鑑賞者」を中国の地に育てることであった(注3)。魯迅は,まず『藝苑朝華』第1集として『近代木刻選集第1集』を編集,出版する。これにはイギリス,フランス,イタリアなど木版画12点が採録されているが,それは原作品からの直接の複製ではなく,TheBookman, The Studio, The Woodcut 続いて魯迅は,『藝苑朝華』第2集として『蕗谷虹児画選』を29年1月に,第3集として『近代木刻選集第2集』を同年3月に,第4集として『ビアズリー画選」を同された作品は,いずれも刊行物からの複製によるものであった。魯迅は,しかしこの『藝苑朝華』の印刷の出来には満足していたわけではない。「『藝苑朝華』は印刷がかんばしくない。ヨーロッパ人の目からみれば,滑稽なものでしょう。……この地の印刷所はかんしゃくもちで,交渉がやりにくいし,しかも夏が暑く,本の出版には不便だ」(29年7月8日,李孵野宛書簡)と言う。また「『新ロシア画選』小引」(30年2月25日執筆)では次のように述べている。「版画を多く取りあげたのは,またほかにも幾らかの理由があった。中国の製版技術は今もって精巧ではなく,実相を変えてしまうよりは,むしろ急がぬに越したことはないというのが一つである。革命時には,版画の用途はもっとひろく,どんなに忙しい時でも,わずかな時間で作ることができる,というのがその2である。『藝苑朝華』が創刊された時に,すでにこの点に注意して,そのため1集から4集まで,ことごとく黒白の線画を取りあげたが,ついに藝苑にかえりみられず,継続し難くなった。今また者たちは,これによって多少の神益を得ることができるものと思う。」(注4)『藝苑朝華』のシリーズは,印刷の拙劣さもあり,また木版画を求める機運がいまだ熟していなかったためもあって,毎回1500部を発行したが,500部しか売れず,資金年4月に,そして翌30年2月,第5集として『新ロシア画選』を自費出版する。収録1928年11月,魯迅は友人たちとともに「朝花社」を設立する。その目的は,「東欧と翌29年1月,魯迅は,版画叢書『藝苑朝華』の出版を開始する。それは,模倣でもof Today等の出版物からの複製であった。第5集を世に送りだしても,おそらくもはやしばしの間であろう。だがなお若干の読-295-

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