鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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の回収ができず,第5集で刊行を断念せざるをえなかった(注5)。「木版画はまことに現在切に必要な技術です」と魯迅は言う(注6)。しかし木版画は手で刷る限り,少しの数しか刷ることができない。そこで,木版画を普及させるためには「亜鉛版」による機械印刷に頼らざるをえないのである。ところが,前述したように「中国の印刷技術は今もって精巧ではなく」,原版画の味わいを再現するには程遠い状況にあったのである。木版画の広汎な普及のためには,印刷による大部数の出版が必要不可欠であった。魯迅が上海に移ってくる1927年以前,中国の中で最も近代文明が導入されていた国際都市・上海ではすでに印刷技術は当時としては相当の段階に達していた。付表にあるように,上海においては1910年代に「網目凸版」技術が一般化し,「オフセット印刷」技術も導入されている。1920年代に入ると,「三色法」が実用化され,1925年には当時の最も進んだ印刷技術を誇る「商務印書館」が「多色グラビア」印刷を始めている。しかし,にもかかわらず,当時の上海の印刷技術の水準は,魯迅の要求を満たすものではなかった。当時の印刷技術への魯迅の不滴は,例えば,次のような言葉に表われている。「亜鉛版でも,大いに優劣があり,その優劣は写真職人と侵蝕職人の技術によるわけで,侵蝕がながすぎると痩せすぎ,みじかすぎると太りすぎることになります。そして書店は往々にして優劣を察せず,ただ廉価だけを求めます」(注7)。の系統的なものがいちばんよい」と考える魯迅は,日本の板垣鷹穂の『近代美術史潮論』を翻訳し,同書の挿図をすべて複製した。しかし,ここでもまた「印刷」が問題となった。「三色版を中国でどうやら作れるのは,たったの2,3軒にすぎない。これらの印刷所が製作した色彩図は,ただ一枚見るだけなら,たしかによいものだが,しかしかりに同一の図画を幾十枚も見ると,そこに同一の色彩を発見できたとしても,濃淡となると一枚毎に少しずっちがっている。印刷した絵からは,もともとすでに原画を知ることは難かしく,ただよく似ているというだけだが,このような印刷した絵によって,またどうにか原画を想像することはできる。書物はもとより少ない。印刷もまた拙劣だとすれば,こうした環境のなかで,もしある程度芸術の美妙さを理解するには,あらゆる困難のすえ得られるものだとわたしは思う。」(「『近代美術史潮論』の読者諸君に与う」,1929年2月25日執筆)(注8)。1929年,「新芸術の基礎のない国では,まばらな紹介はなんら有益ではない。ある種-296-

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