凸版印刷の技術が満足のいくものではなかったことから,魯迅は次に「コロタイプ」による印刷を試みる。1930年9月,ドイツに留学中の詩答からカール・メッフェルト作の『セメント』のための木版画挿絵10点を受け取った魯迅は,「芸術学徒のために比較的信頼できる木刻の複製本を提供」するために,これを編集し,『メッフェルトの木刻セメントの図』と題して,「三閑書屋」の名で自費出版することに決め,翌31年2月に印刷を終えている。同書を「コロタイプ」で印刷することに決めた経緯について魯迅は,後に次のように書いている。「亜鉛版による複製もまだ十分ではない。線の太い細いは,亜鉛版では消えやすいもので,たとえば粗い線にしても,酸に侵蝕させるのが長いか短いかによってちがいができるもので,短く浸ければ非常に粗く,長く浸ければ非常に細い。中国にはまだ製版をちょうどよい具合いに仕上げる名エがきわめて少ない。ほんとうのところ,やむなくガラス版〔=コロタイプ〕を使ってわたしが復刻〔=複製〕した『セメントの図』250冊は,中国では初めての試みであった」(「木刻の翻印を論ず」1933年11月6日執筆)(注9)(注10)。この『メッフェルトの木刻セメントの図』は,中国の宣紙にコロタイプによって250部が印刷された。魯迅は,このために191元2角を使っている。中国のコロタイプ印刷に満足できなかった魯迅は次に,みずから収集したソ連の版画の中から50点を選び,日本でコロタイプによって印刷することを考えた。なぜなら,日本の印刷所のほうが「印刷工の腕がよく,エ賃も安いから」(34年3月9日,何白濤宛書簡)であった。1934年5月23日,東京の洪洋社よりソ連版画集『引玉集』が届けられた。総59頁,そのうちの何枚かは原作品を縮小したものであり,限定300部,コロタイプ版,布装による装禎,エ賃・送料計340元。諸雑費含めて制作費に350元余,一冊につき制作実費は1元2角,定価一部1元5角で販売された。魯迅は,この印刷の出来を評価し,「刷りの仕上りはなかなかで,亜鉛版による印刷の及びもつかないところです」(注11),「上海の印刷工は手間賃が高いうえに,仕上りもこれほどよくありません」(注12)と書いている。当初「赤字は必至」と心配されたが,幸いにも34年の末には初版が売り切れ,200冊が再版された(注13)。この頃から魯迅は,かねて文通をかさねていた青年版画家たちに,中国独自の版画-297-
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