鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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雑誌の刊行の意志を持っていることを伝えている。1934年3月28日の陳煙橋宛書簡では,「中国の木版画はかっこうがついてきました。作品を公募して精選し,入選者にそれぞれ100枚刷ってもらい一冊の本にまとめるか,不定期の雑誌をだし,各号,20枚から24枚の版画を入れる。こういったことをすれば,みんなに有益だと考えます。」と述べている。また同年4月5日の李霧城宛書簡では「木版画を鼓吹するには,季刊雑誌をだすのがよいとおもいます。それもできなければ,半年刊か不定期刊をだし,毎号,版画20点を厳選,100冊印刷する。その方法としてはまず木版の画集を集め,これから選び,決定したなら,作者から版木を借りて刷る。(中略)近年来の木版画の画集を見ると,20点は選ぶことができます。それくらいの刷りのエ賃と紙代は,わたしがなんとかできるので,あるいは自分でやってみるかもしれません。」と季刊雑誌の発行を提起している。しかし,現実的な問題として,100部ほどの木版画を出すには,本格的な機械印刷は不可能であった。なぜなら,版画1点を製版するのに,どうしても4元から5元はかかり,1冊に20点から24点を収めるとして,製版費用だけで100元以上が必要となる。さらに,これに紙代が,抄更紙という紙を用いるとしてもおよそ30元,印刷・製本費がおよそ15元必要となる。また,かりに製版代の安い所を探すとしても,製版代が安ければいいというものではなかった。なぜなら「安いと手をぬきますし,線の太さまで,もとのものとちがってしまう」からである。したがって,このような小部数の版画集の出版では,「版木を使って印刷するよりほかはな」<,「手動式〔印刷機〕を使うことになります」と魯迅は書いている(34年4月12日,李霧城宛書簡)。こうして魯迅は,木版画の普及のための木版画選集の刊行を決め,これを『木刻紀程』と名づけた。魯迅は,34年8月14日,その編集を終え,印刷に付したのだが,その印刷に「意外にも大失敗」してしまうのである。なぜならば,版画作者たちは,機械による印刷というものについて知る所が少なく,版面を平滑に仕上げるということに考えがおよぼなかったために,「版木の表面が平らでなく,それで機械を用いて刷ると,刷れるところと刷れないところが生じ」てしまったのである(1935年1月18日,唐詞宛書簡)。魯迅は,印刷所に面責されたばかりではなく,多くの時間と金を費やしてしまった。この失敗により,『木刻紀程』の定期的な刊行は不可能となり,中国の近代木刻運動-298-

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