鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
307/475

は大きな結集軸を持つことが出来なかったのである。とはいえ,魯迅が1931年8月上海において主催した「夏期木版画講習会」をひとつの契機として,上海にはいくつもの木刻団体が組織され,上海を中心に木刻運動は展開されていったが,その後中国各地に波及し,それぞれ独自の特色を持つ運動を展開していった(1934年に李樺を中心に広州で組織された「現代創作版画研究会」等)。魯迅は彼等と手紙のやり取りをし,その作品を批評し,助言を与えた。魯迅は,自らを「木版を彫ることのできない人間」であり,「わたしの能力では幾枚かの版画を複製して青年の参考に供することができるだけ」(1935年2月14日,金黍野宛書簡)と述べているが,青年たちに世界の新しい版画をいかに良質の印刷によって,しかもできるだけ安価に提供するかということのために費やされた魯迅の辛苦は銘記されなければならない。李樺が広州で学生たちと組織した「現代創作版画研究会」は自作の版画を収めた版画集『現代版画』を18集まで発行したが,その『現代版画」について1935年1月4H の李樺宛書簡の中で魯迅はつぎのように述べている。「『現代版画』1冊は去年届いております。選択した内容はべつとして,すべすべの紙,油が多すぎるインキが作品のすぐれた点をかなり損なっています。創作版画は版画ではありますが,作者が自分で刷ってこそ,もち味が完璧となるもので,機械で処理すると原作と大いに異なってきます。まして中国の印刷術は,かくも進歩していないのですから。」中国の印刷技術の当時の段階では,印刷物によって版画を十分に味わうことは不可能であり,版画本来の持ち味は手刷りによってこそ引き出されると,魯迅は考えるに至る。1935年6月16日の李樺宛書簡で魯迅は言う。「わたしは木版画は手で刷るべきだと考えます。木版画の美は,半ばは紙質と刷りにあります。これが一つ。これは母胎です。これから亜鉛版を作成するか,あるいは銅に直接やきつけて,大量の印刷に使うのが,もう一つ。これは苗裔です。しかし後者の芸術的価値は,前者と同じではない。」このように「木版画の美」をとらえる魯迅は,1930年代に論争の焦点のひとつとなった「芸術における政治的価値と芸術的価値」の問題について,同じ書簡の中で明解に語っている。「木版画はなんらかの役に立つ道具であるというのは,まちがいではありません。し-299-

元のページ  ../index.html#307

このブックを見る