鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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かし,それが芸術であることを忘れてはならないのです。それが道具たり得るのは,それが芸術であることによって,です。斧は大工の道具ですが,鋭利でなければなりません。鋭利でないと,形は斧であっても道具ではないのです。それでも,道具だとみなし斧だと称する人間がいるのは,その人間自身は大工ではなく,仕事を知らないからです。」木版画は,若者たちが自らの生活の中からつかんできた主題を,自らの手で版木に刻み込み,自らの手で刷ることにより,それを作り出すことと見ること自体が楽しく美しい経験となる「芸術」となることができると同時に,「道具」としての機能すなわち宣伝・教化・装飾等の役をも果たすことができる。このように1930年代中国において木版画は,当時の印刷複製技術の制約の中にあって,確かに小部数しか生み出され得ず,多くの人々がこれを目にすることが出来たわけではない。しかし,木版画は小論冒頭ですでに引用したように,魯迅とその期待に応え困難の中で作品を生みだし続けた青年たちの手によって,「それ以外の芸術と同様に,その長い道程において環としての任務を尽くして,奮闘,向上,美化といったさまざまな行動を助け」ることができた。そしてまた魯迅自身も,この「環としての任務」を一生を通じて見事に果たし終えたということができるであろう。若い日に「進化論」を学び,自らを滅ぶべき階級に属する「没落した名家の子弟」(注14)であると強く意識した魯迅は,自分の後に続く「新しい人間」たちのために「犠牲」となることを自らに課していた。しかし,若者たちとともに木刻運動を進める中で,魯迅は自ら担ってきた限難辛苦が確かに新しい時代の新しい「人間」たちを生み出していくことを実感できたのではなかったか。なぜなら,芸術運動とは物としての作品ではなく「人間」を作り出す長い運動である,からである。その死の半年前,「進化の長い綱の一つの環」としての自らの姿勢を語る魯迅の言葉を引用し,小論を終りたい。「人生はいまのところ,まことに苦痛ですが,我々は光明をたたかいとらねばなりません。自分はめぐりあわなくても,後世に残すことはできます。我々はこのようにして,生きてゆきましょう。」(1936年3月26日,曹白宛書簡)-300-

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