の織物が,常に染織技術の混合の点において抜きん出ていること,そしてこの万博に,起立工商会社から小さなパネルと花の刺繍のついた大きなカーテンの出品があったこと,それらの製作技術がヨーロッパの作品にとって興味深いことなどが記されている(注28)。新七の作品(図11〕や西村総左衛門の大きな木と草花の図柄の刺繍などは高く評価された。後者の作品は,特に自然のモチーフのデザインに優れているとして金賞を得ている。全般的なフランス側の評価としては,日本の染織品は,やがてフランスの製品にとって競争相手になるであろうし,日本から多くの若い者が,とりわけリヨンに織物に関する技術を学びに来て,やがて日本に帰り,学んだことを自国のために役立てているので,危機感すら覚えると述べられている(注29)。一方,リヨンの出品物については,この万博において非常な成功を収め,製品の質が高いと好評を博した(注30)。からの染織品の出品のほか,フランス人の収集家による日本の染織品の出品もあった。日本からのものとしては,林忠正の出品した滝の図柄の刺繍のパネル〔図12〕は大変な人気であったと記録がある(注31)。また,コレクションの出品としては,S・ビングとロングウェルによって多くの日本の布見本と俄紗が展示され,色彩の調和が素晴らしいこと,刺績が卓越していることなどが述べられている(注32)。ところで,前述したようにリヨンでは既に1860年頃からタッシナリやビアンキーニなどの製絹会社の製品に日本的なものが現れていたのだが,殊にこの万博では,リヨンの出品物の中に,菊や燕などの日本的なモチーフを採用しながら,一見してH本的なものとは思えないはどデザイン的に高度な作品が現れた。そのためには,デザイナーが日本の図案にいくつも目を通して,ヨーロッパのデザインとして生かしていくためにはどう応用していくことが望ましいか熟考した形跡が汲み取られるのである。この後,20世紀に至ってからも万博や絹織物展示会などが各地で開催されたが,川島,飯田や弁天合資会杜の刺繍などは常に絶賛を浴びた(注33)。フランスの作品はというと,その後アール・ヌーヴォーという新しい様式へ向かって成熟化の道を辿る傾向にあったと考えられる。1878年のパリ万博において注目することは,この万博の「織物と刺繍」部門である。1879年のガゼット・デ・ボザール誌の中の「万博における現代美術」の記事には日本1889年のパリ万博では日本から多くの出品があった〔図9,10〕が,高島屋の飯田1894年には,リヨンにおいて「植民地博覧会」と称して万博が開催されたが,日本-23 -
元のページ ../index.html#31