Histoire documantaire de l'industrie de mulhouse (1902) p. 641 注(1) ミュルーズのデザイナー,1822-1895年,ミュルーズのクークランエ房で働き,後Dictionnaire de biographie des hommes celebres de l'alsace (1910) pp. 714-715 (2) ミュルーズのデザイナー,1827-1889年,シュバルツ捺染会社で1872年まで働く。(3) ミュルーズに同名の捺染会社があった。1875年創立,同掲書2p.426 (5) Bulletin de la societe industrielle de mulhouse (1838) no.11, p. 87 6)まとめ今回の調査によってミュルーズ,リヨンなどの産業都市において,かなり早くから日本の図案に関する情報が伝わっていたことが確認できた。しかも,日本の図案が伝わった経路には複数の方法があった。日本の図案や美学は,フランスのデザイナーに丁寧に分析され,自国の製品に応用可能かどうか熟考された結果それらの製品が出来上がっていた過程がうかがわれた。ミュルーズにおいては,数百枚の日本的な下絵を見ることができたが,日本の図案の模倣と日本への空想のデザインが多く,洗練されたものとは言い難かった。これはやはり輸出を考慮した産業第一主義に走ったため,デザイナーにとって準備ができていないことを示すものだと思われた。リヨンにおいては,蚕種や生糸の輸入により日本の情報が他の都市より比較的たやすく入手できたこと,商工会議所の力添えがあったことがあげられる。その上,1870年頃からは,リヨンの織物が低迷しだしてデザイナーが何か新しいアイデアを求めていた時期であった。そして,その後いくつかの製絹業者はまず,全くのレプロダクションを製作し,モチーフだけを試しに採用してみるなど試行錯誤したあげく,ヨーロッパ的な表現方法を崩さずに組み合わせることにより独自のものを生み出すに至ったと言えよう。そのためには日本のものを受け入れる下地がリヨンにおいてすでにあったこと,ビングやウォルトなどイニシアティブを取る人物がリヨンに関っていたことも忘れてはならない。当時の織物全てが日本的ではないにしても,相当数の日本的な織物が現存することは,ミュルーズ,リヨンのデザイナーにとってジャポニスムが重要な現象であったことを裏づけるものだと確信するに至った。にミュルーズ産業美術館の学芸貝として古代から現代までの捺染品の分類をした。特に室内装飾デザインのために花や草木を多くデザインした。(4) 彼については今のところよくわからない。-24 -
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