鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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ら18世紀後期大坂の地で活躍した儒者や各派の画家たちは,混沌詩杜の人脈を介してえの一方18世紀中期に活躍した狩野派系画家吉村周山は片山北海,中井竹山•履軒兄弟米山人らの文人画家がすでにあげられている。混沌詩社には全国の文人がその名を慕った木村兼蔑堂も加わっており,大坂における文人画の振興に同社が果たした役割の大きさは改めて指摘するまでもないであろう(注2)。文人画以外の分野で混沌詩社の人々と交流を有した画家としては,まず大坂において沈南藤系の画風を最初に試みた画家の一人で,書家としても著名であった泉必東があげられる。明和元年の彼の死に際し鳥山松岳,葛子琴が挽詩を贈っているが(注3)'その生前には菅甘谷門下で混沌詩社の葛子琴,田中鳴門,篠崎三島らとともに学んだ住吉霊松寺の学僧義端や細合半斎との交流も確認できる(注4)。橘守国や吉村周山らの画家の絵本類に題字や序文を贈っており(注5)'混沌詩杜成立以前の大坂の画家と文人のネットワークの核となる人物として注目される。らと交流があった(注6)。周山の弟子で弟狙仙とともに大坂における写生画派森派を開いた森周峯は,篠崎三島や葛子琴が菅甘谷に就く前の師兄楽郊の塾に出入りしていたことが知られる(注7)。また大坂画壇における風俗画系の祖月岡雪鼎は,江田梢夫,隠岐子遠ら混沌詩社と縁の深い文人たちと交流があり(注8)'雪鼎の弟子蔀関月,関月の弟子中井藍江はそれぞれ懐徳堂の儒者との間に親密な交流があった(注9)。これほとんどが顔見知り,もしくはそれに近い親しい関係を有していたことが想定できよう(注10)。このような画家と儒者の親密な交流は19世紀以降も受け継がれ,例えば篠崎三島の養子小竹と頼春水の子山陽,岡田米山人の子半江らはやはり極めて親しい友人関係を保ち,彼らの交友を核に幕末の上方における画家と文人のネットワークが形成された(注11)。一方大坂以外の地で活躍した画家では,京の池大雅などの文人画家,円山応挙,呉春をはじめとする写生派の画家などに対するこれらの儒者の着賛資料も散見される。大雅の場合その門下の福原五岳,木村兼蔑堂らが混沌詩社の人脈に連なっていることから,これは当然のことと言えようが,応挙,呉春の場合彼らと交友があった皆川洪園や上田秋成などの京の儒者や文人が混沌詩社や懐徳堂の儒者と親密な交流を有していたことがその一因となっていると思われる。同時にこれらの資料は,地理的にも近い京の画家たちが大坂を活動の場とし,彼らに対する支持が大坂で存在したことを示唆している。-328-

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