2.森狙仙と柴野栗山・中井竹山の交流言うまでもなく森狙仙(1747■1821)は近世大坂画壇で最も著名な画家である。若年期狩野派を学んだが,のち写生画風を開拓し写生画派としての森派を確立した。遺作の大半は緻密な毛描きによる写実的な猿画で,「狙仙の猿」と称されて一世を風靡した。その狙仙と当時大坂で活躍した儒者の間に交流があったことはいくつかの着賛資料によって知ることができる。これまでの狙仙研究で最も纏まったのとしては河野元昭氏と木村重圭氏の論考があげられるが(注12),その中で両氏はともに狙仙は初め祖仙の号を有していたが,文化4年(1804)の還暦の頃「祖」の字を猿を意味する[狙」に改めたと推測し,それは柴野栗山が狙仙に与えた七言古詩が契機となったことを指摘されている。この詩は菊地五山の『五山堂詩話』巻三に「贈書生祖仙歌」と題して全文が収録されているが,その末尾に「祖仙抵頼諒不得,承認狙仙非梢仙」の句が見える。栗山がこの詩をいつ作ったか現在明らかではないが,文化4年の序がある『五山堂詩話』に収められていることから狙仙改号以前の作であることは確実で,しかも栗山が天明8年(1788)正月に幕府儒官として江戸に赴任する以前,京坂で活躍したことが知られていることから,この詩がそれ以前の作であるとすれば狙仙と栗山の間に交流があったことが想定される。ところで狙仙の改号に関しては,「親子猿図J(大阪市立博物館)に寄せられた中井竹山の七言絶句の賛も注目される。胡孫子母意相憐,毛骨精神巧斡旋,ー画生平作三昧,祖僭便識是狙倦,この賛の後には「丁未(天明7年)之冬」という年記があり,本図は狙仙41歳の基準作としても知られている。ところでこの詩は竹山の詩文集『霙陰集』自筆稿本(注13)の詩集巻6に「祖隈猫候図祖倦不作他画特於擁狼究妙也」と題して収められている。自箪稿本『莫陰集』は竹山が詩文を作成するたびに書き加えていったもので,配列順から各詩文の作成年代を把握することが可能であるが,本詩は天明2年8月から12月までの間に作られたものと判る。すなわち本詩は「母子猿図」への着賛の5年前,おそらく別の狙仙の猿狼図のために作られたものであろう。題に見られる通り狙仙はすでにこの時期猿画を得意とする画家として知られていたことが判る。また結句が「祖仙」から「狙仙」への改号を奨める内容となっているのが栗山の七言古詩と共通する-329-
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