入りし,また周峯の師吉村周山も片山北海,中井竹山•履軒らの儒者との交流が確認3.谷文屈と懐徳堂の交流ことから,この二つの詩は一方の影響を受けて一方が作られたと思われる。『莫陰集』には同じ天明2年の夏から秋頃の作と推定される「題森祖仙狙猥弄蝉圏」と題する七言絶句が収められている。不言延壽賦縦横,森氏丹青巧冨生,多慧王孫應自重,無腸公子本難軽,狙仙の写生画風の形成に関して河野,木村両氏は,安永2年(1773)頃に修理が行われ,同年27歳の狙仙が彩管を揮ったと推定される紫雲寺本堂天井画「花舟禽獣図」や障屏画「蓮池図」などが,狙仙が最初に学んだ狩野派の風を色濃く残すのに対し,狙仙の猿と称すべき写実的な猿画の様式は40歳前後の作品にようやく現れたことを指摘し,30代を狙仙の画風形成期と見なされている。竹山のこの賛詩の承句に見える「寓生」という字句は単なる修辞と考えられなくもないが,これが狙仙の猿の特徴である写実性を伝えるものとするならば,狙仙がすでに30代の半ばにはその写実的な猿の描写を完成させていたことを示唆するものである。狙仙と栗山や竹山との交流がいかなる経緯で始まったのか詳らかではない。ただ先に紹介したように狙仙の兄周峯は幼年期篠崎三島や葛子琴らが学んだ兄楽郊の塾に出できる。狙仙の近辺にいた先輩の画家たちが儒者との交流を有していたことが,狙仙と儒者との交流の契機となったことは十分に想定されよう。狙仙は36歳という比較的若い時期に猿の画家としての名が高く,晩年に自ら名乗る「狙仙」の号を与えられていたのである。また田能村竹田の『山中人饒舌』に「柴栗山翁贈七古一篇称揚甚勤,名益彰尖Jとあるように,これらの儒者が猿の画家狙仙の名を世間に喧伝したことも,狙仙にとって彼らとの交流は有益であっただろう。一方狙仙が36歳の時点ですでに写実的な猿の描写を完成させていた可能性が大きいことを竹山の賛詩は示唆する。ただ狙仙が30代にすでに画風を確立していたことを立証するためには,この時期の作品の出現が侯たれるところである。谷文晟(1763■1841)は寛政8年(1796)松平定信の命で『集古十種』編纂のための資料調査を目的として上方を旅行した。『兼蔽堂日記』は同年7月25日文昆が初めて木村兼薮堂を訪ね,8月24日一時離坂の暇乞いに来訪,10月3日に紀州より帰坂,翌-330-
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