鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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14)。長年襖絵として実用に供されていたこと,明治期の補修が粗雑であったことなど4日兼簸堂の見送りをうけ江戸へ出立したことを伝えている。文屎がその折薬酸堂の邸宅と肖像をスケッチした画稿をもとに彼の肖像画の代表作「木村兼殴堂像」(大阪府教育委員会)を制作したことはよく知られている。しかしそれ以外の文麗の大坂における事跡はこれまでほとんど知られていない。ここでは文屎と懐徳堂の交流について紹介することとしたい。大阪大学附属図書館懐徳堂文庫には文晃の「帰馬放牛図」〔図1• 2〕と題する作品が収められている。本図に付属する中井履軒の曾孫天生の識語によると,本図はもと懐徳堂講堂の襖絵で,寛政年間に文晃が懐徳堂で揮奄したものであるとしている(注から保存状態は決して良好ではない。ただ高山の麓に広がる平原で遊ぶ牛馬を墨や淡彩で湿潤に描き出す本図は,寛政文昴の典型的な画風を備えたものということができよう。図1谷文晃帰馬放牛図大阪大学附属図書館懐徳堂文庫図2帰馬放牛図落款rヽ-331-

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