ところで懐徳堂は寛政4年5月16日の大坂大火で全焼した。その後寛政7年8月10日になって再建工事が開始され,完工したのは翌8年7月であった。寛政年中に文腿が大坂に一定期間滞在していたことが確実な時期は,先にあげた同年7月末から8月にかけてのみである(注15)。文屈が同図を制作したのば懐徳堂の完工直後であったと思われる。これ以前の文晃と懐徳堂関係者との交流は確認されていない。ただ懐徳堂とは無縁の,しかも遠隔の地である江戸の画人文晃が何の理由もなしにその障壁画の制作に携わるだろうか。しかも懐徳堂の再建直後の制作というのはあまりにもタイミングが良すぎる。そこで想起されるのは文晃の庇護者松平定信と懐徳堂学主中井竹山との交流である。定信は天明8年6月4日巡察で訪れた大坂で竹山と会見し,学問についての意見を聴取した。また懐徳堂焼失直後の寛政4年8月から9月にかけて竹山は江戸を訪れ,定信をはじめとする幕閣の要人に懐徳堂再建への幕府の援助を求めている。竹山は幕府による懐徳堂の官学化を望んでいたが,結局その希望は叶えられず再建費用の一部が幕府から下賜されるにとどまった。しかしこのような交渉を通じて竹山は定信やその側近から知られる存在になった(注16)。また当時の江戸には,安永・天明期の大坂において竹山とともに朱子学復興の気運を高めた尾藤二洲,柴野栗山,古賀精里が幕府儒官として定信の近辺にあり,とくに栗山と文晃との間には親密な交流があった。折よく上方へ赴く文晟に,大坂へ立ち寄った際再建なった懐徳堂の障壁画の揮奄がこれら定信周辺の人々から依頼された可能性は十分想定されよう。文昆と懐徳堂の交流はその後も続いた。寛政10年竹山の長子中井蕉園は江戸に赴き二洲,栗山らと面会しているが,彼が帰坂する際の送別の宴で,文毘ははなむけに「蓮池蜻蛉図」を描いている(注17)。安永・天明期の大坂で,混沌詩杜の人脈に連なる儒者を中心とする朱子学振興の機運が高まったことは,寛政期に江戸の画家谷文晃と大坂の懐徳堂という東西の文化交流に結実したのである。むすび以上述べたように18世紀後期以降の大坂では画家と儒者の間に親密な交流が存在するケースがしばしば見受けられ,それが画家の活動に様々な影響を与えたことが推測-332-
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