注される。その成果の一つと想定されるのが書画会である。大坂において18世紀後期に書画会が度々開催されていたことは『兼殴堂日記」などから明らかであり,また木村兼殴堂自身も明和7年に書画会を主催している。画家と儒者が一堂に会する書画会は,画家と儒者が交流を有する契機としても重要であったと推測されるが,両者の交流が親密であったことが18世紀後期以降大坂において書画会が盛んになっていく大きな要因になったと思われる。一方大坂画壇の画家たちの特徴として,多くの画家が一流派の画風に固執せず,様々な流派の画風を兼学することで自らの画風を探っていったことが武田恒夫氏によって指摘されている(注18)。大坂における様々な流派の画家たちは儒者の媒介のもと互いを見知るというような親しい関係にあったと推定されることを指摘したが,かかる画家と儒者の交流ネットワークが各々の画家の画風兼学の契機の一つとなったことは想像に難くない。最後に本研究の今後の課題について述べたい。今回の研究は大坂という地域に絞って画家と儒者の交流を明らかにしていくものであった。ただこのような交流は,大坂の地のみならず京や江戸またそれらの周辺地域でも頻繁に行われていたと想定される。それは先に指摘したように,大坂の儒者や画家が京や江戸の儒者や画家と交流を有していたことから窺い知ることができよう。これら大坂以外の地域での画家と儒者の交流を探ることで江戸後期の絵画史に新しい知見を加えることが今後の課題となろう。そして他地域におけるかかる交流の実態を考察することが,逆に大坂における絵画活動の実像を浮かび上がらせていくことにつながるであろう。(1) 小堀一正・山中浩之・加地伸行•井上明大『叢書日本の思想家⑳中井竹山・中井履軒』(明徳出版杜昭和55年)114■132頁。(2) 佐々木丞平「上方の南画」(『水墨美術大系別巻第1日本の南画』講談社昭神山登「文人画」(『近世大坂画壇』同朋舎昭和58年)。(3) 鳥山松岳『垂祓詩稿」,葛子琴『葛子琴詩抄』(ともに『近世文藝叢刊第8巻浪華混沌詩杜集』<般庵野間光辰先生華甲記念会昭和44年〉所収)。(4) 義端『庭賜詩稿』,細合半斎『小草初医』。和51年)。-333-
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