鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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(9) 拙稿「蔀関月の画業一懐徳堂との交流を中心に一」(『フィロカリア』11号平成(11) 注2佐々木,神山氏前掲論文および星野鈴「大坂の南画家岡田半江」(『国華』1048(12) 河野元昭「森狙仙研究序説」(『国華』950号昭和47年)。(16) 注l前掲書94■114頁。(5) 守国の『有馬勝景図』の題字,周山の『和漢名筆画英』の序文を草している。(6) 北海は周山の『和漢名筆画宝』の序文を草している。また竹山•履軒は周山筆「岳陽楼図」「酔李白図」(ともに大阪市立博物館)に着賛している。なお「岳陽楼図」には二人のほか三宅春楼,加藤景範ら懐徳堂の儒者,門人も着賛している。(7)頼復校『増補在津紀事附録』(『詩集日本漢詩第十巻』<汲古書院昭和61年〉に影印本所収)。(8) 頼春水『春水遺稿』所収『在津紀事』(注7前掲書に影印本所収)。6年)。(10) 雪鼎を除くとここに紹介した画家は全て『兼頑堂日記』にその名が見られる。また兼殴堂が雪鼎筆「美人図」(太田記念美術館)に着賛していることから,両者の間に交流があったことも想定される。兼藉堂が様々な画派の画家と交流を有していたことからもかかる親密な交流が窺えよう。号昭和57年)。また小竹らが交友を有したのは半江や田能村竹田らの文人画家に限られるわけではない。小竹らの詩文集には大坂の写生画系,風俗画系などの様々な画家との交友や彼らの作品への着賛を示す資料が散見される。また竹田は『山中人饒舌』や『竹田荘師友画録』に狙仙や徹山などの森派の画家や上田耕夫,長山孔寅,中井藍江ら大坂以外ではさほどその存在を知られていない非文人画系の画家のことを記しているが,それはかかる人脈を通じて彼らを知る機会を得たからではなかろうか。木村重圭「狙仙致」(『古美術』49号昭和50年)。(13) 『近世儒家文集集成第8巻莫陰集』(ぺりかん社昭和62年)に影印本所収。(14) 武田恒夫「懐徳堂関係の絵画遺品と大坂画壇」(『大阪大学共同研究論集』2「大阪の都市文化とその産業基盤」昭和61年)。(15) 『思玄亭遺稿Jは寛政7年に文昴が上方に赴いたことが伝えられているが,他の資料からそれを裏付けることはできない。また同年の時点では障壁画を収めるべき懐徳堂の建物は存在しない。-334-

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