2.主要な画人たちするにたる資料は見出すことができない。近世初期以来の画伝類は,おびただしい雪舟流画人の名を収録している。『本朝画史』や『画工譜略』の雪舟流系譜には多くの有名無名の弟子たちの系統が示され,降っては『古画備考』にも,数十人の雪舟流画人たちの伝記や作品が載せられている。おそらく狩野派などによる雪舟イメージの理想化が,雪舟流の誇大なイメージを形成させ,逸伝画家を無批判に雪舟系譜へと編入させたらしい。そうしたなかで,桃山時代に編纂された雪舟流系譜「画師的伝宗派図」は,『等伯画説』の簡単な系図を除けば最も古く,第一に参照すべき系譜といってよい。この系譜は雪舟の直弟子32名をあげており,孫弟子以降は,周徳の弟子雲谷等顔以下雲谷派画最も重要な系譜である。しかし同時に,雲谷派の主張に引きずられた記述が含まれている可能性も高い。実際,孫弟子以降では雲谷派と秋月系の画人以外は無視されており,公平な扱いとはいえない。収録作家の採用基準が明確でないという点で,全面的に信頼できる決定的な史料とはならない。秋月の諒は等観,俗姓を高城氏といい,もと薩摩島津家の家臣であった。秋月が雪舟の門人であることは,彼が雪舟から付与された自画像の款記と,桂庵玄樹の詩文集『島陰漁唱』中の一節から確実である。これらの史料からは秋月が禅宗寺院の蔵主職であったこと,長く雪舟のもとで画を学んだのち明応元年(1492)薩摩へ帰郷したこと,薩摩福昌寺の塔頭に住したこと,桂庵とは赤間関で旧交があったことなどが従来から指摘されている。また,さきの雪舟自画像には明の文人青霞の弘治9年(1496)の賛があり,秋月が前年入明してこの年帰朝した遣明使に同行し,その際みずから画を持参して著賛を得たものと一般に認められている。江戸時代の画伝類には秋月を雪舟画風の最も正統な継承者として認識しているものが多く,この高い画名と呼応して伝称作品の数はきわめて多い。しかし,それらの落款や画風は様々で,基準作の抽出は容易ではない。現在のところ,秋月の款記については,多くの伝称作品においてみられる太めの草書体のものが注意される。印章は朱文方印「日本薩陽釈氏等観」白文方印「等観」朱人5名と秋月の弟子6名を記す。等顔と交友のあった江月宗玩の筆録したものだけに1)秋月等観-338-
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