鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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絵貼屏風」が周防の雲谷軒周辺との関わりを示す。この画に詩を寄せている景徐周麟は永正15年(1518)に没しているので,それ以前の作画となる。また伝称作品中に建仁寺273世東輝永果〔天文11年(1542)寂〕著賛の「維摩図」(梅澤記念館蔵)があり,活躍期の参考となる。雪舟は東遊の際に北陸を訪れたとみなされるが,『等伯画説』はその旅に等春が同行し,その後加賀の富樫氏に仕えたことを記している。これをそのまま史実とすることはためらわれるが,「金山寺図」(東京国立博物館蔵狩野家模本)など明らかに雪舟系といえる作品の存在は,等春を雪舟流画人の一人として数えるに十分な説得力をもつ。等春には,基準印とみるべき白文方印「等春」があるが,その他の朱文方印「等春」朱文方印「三益」などの印が捺される作品については,鑑識が困難である。前述の「人物花鳥図押絵貼屏風」や「灌湘八景図」(正木美術館蔵)からは,雪舟流のなかでもとくにすぐれた画技が看取されるだけに,関係資料の出現がまたれる。4)周徳『本朝画史』は周徳が等薩に付与した山水図の策彦の題詩を引いており、,それによれば,策彦が入明のために西下した天文6年頃,周徳が「雲谷庵主」であったことになる。しかしこの説の傍証史料はないに等しく,誤った記述の多い『本朝画史』を典拠とするこの説を無批判に受入れるべきではない。周徳については,雲谷庵後住のイメージが一般化しているだけに,いま一度確かな史料の検討に立返る必要があろう。周徳についてふれる同時代史料として,策彦周良が「周得」の画を明の文人へ贈ったという『策彦入明記初渡集』の中の記事がある。これによって周徳が天文8年(1539)の大内氏の遣明船で,策彦とともに入明したとする記述が多いようである。しかし記事中には周徳の画のみあらわれ,入明は確かめられない。従来入明中とされてきた天文9年に,当時大内氏と親密な関係にあった毛利氏の郡山城にいた「周徳」をその人とする可能性ものこされている。周徳の作品は比較的鑑識が進めやすい。「撥墨山水図」(正木美術館蔵)など有力な作品に捺される朱文重廓方印「周徳」を基準印と考えてよいからである。ただし,それとは微妙に異なる印を有していながら無視できない作品もある。大徳寺85世千林宗桂〔天文12年(1543)寂〕著賛の「周徳」印「布袋図」(和泉市久保惣記念美術館蔵)や「雪景山水図」(常盤山文庫蔵)などである。因みに従来周徳の代表作として紹介されてきた陽谷乾瞳〔天文2年(1533)寂〕・貞-340-

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