鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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3.雲谷派成立以前のその他の画人たち6)雲淫永恰高橋範子氏は正木美術館の仲和賛「柿本人麿図」の顔貌表現には雪舟画に通ずるものがあると述べられたし,数点の花鳥画は中国院体画を基本とする点で雪舟と共通している。雲淫永恰は,「雲深筆」の款記か「永恰」の印章,あるいはその両方がある作品を20点あまりのこしている。それらのなかには玉澗様撥墨山水図など雪舟風の濃厚な作品が多いので,彼が雪舟ー派の画家であることは容易に首肯される。近世の画伝類に土岐氏の一族で支山と号し,高野山に住したと伝える記事が多いがこれらは疑問で,一方天文年間ころの周防長門における活動は明確である。雲深は,雪舟の没する前年の永正2年(1505)に,師匠から雪舟の写した唐絵の画本を相伝しているので,雪舟からみればおそらく孫弟子にあたる。作画領域は雪舟同様,山水,道釈人物,花鳥仏像肖像と多岐にわたり,山口から移建された広島市不動院の天井画「龍天人図」(天文9年1540)のような濃彩の仏画や,「繋馬図」絵馬(住吉神社蔵),天文22年(1553)著賛の大内氏重臣内藤興盛の肖像画(模本:善生寺蔵)などの作品からみて,きわめて職業画家的な技術をもった画僧であったと考えられる。なかでも2組の「釈迦三尊図」(東光寺・常盤山文庫蔵)は,現在知られる雪舟系画人による仏画の白眉である。さきの不動院は大内氏の建立した建造物であり,同じ天文9年に雲深が墓股を立願した八坂神杜本殿も大内氏の保護を受けている。また大内氏の最も重要な寺院のひとつである香積寺との関係もおぼろげながら想定できる。このことは雲渓が大内氏周辺をパトロンとして活動していたことを意味し,雪舟以来の大内氏による雪舟流の庇護を具体的に示してくれる点でとくに重要な画人といえる。前章にてふれた画人たちのほかに,系譜や画伝類に雪舟流として収録されるひとたちは多いが,ほとんどの画人が作品・伝記の両面で,十分な資料をのこさない。雲峯等悦や等本・季英周孫・雪深等澤のように確かな伝歴は知られながら作品の見出されないもの。周耕・周元・甫雪等禅・元賀・照陽軒珠阿.楊月・承虎らのように優れた作品をある程度のこしながらも伝記の曖昧なもの。孤月周林・等歳・等梅・雪津・希材周珍・周楊.楊富・龍登など作品鑑識の困難な伝記不詳作家。彼らについて-342-

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