しヽ。は今後の研究による新資料の出現を期待するしかない。当面は前章であげた画人たちを中心とした考察を続けていくことになろう。さて,天正5年(1577)に景祐なる画僧が雪舟風の濃厚な「住吉神社本殿壁画」(下関市)を描いている。雲谷等顔が,毛利輝元より雪舟筆「山水長巻」および雲谷軒を拝領し,いわば公式に雪舟流正統の地位についたのは文禄2年のことであるから,この壁画の作者「僧景祐」は雲谷派成立以前の雪舟流画人ということになる。おそらく従来全く名前の知られていなかった雪舟流画人はこの人だけでは無い。室町末期に制作された種々の作者不詳作品のうち,作風からみて雪舟流の範疇にはいってくるものは多い。なかでも毛利隆元筆と伝える「花烏図」(毛利博物館蔵)や「琴崎八幡宮縁起」(琴崎八幡宮蔵)など周防長門地域にのこる作品は,衰退しながらも命脈をたもっていた雲谷軒周辺の画人たちの作品と考えることが可能である。雪舟没後の雲谷軒周辺にいたことの確実な周徳・等澤・雲淫らの存在は,雲谷軒画壇とでも呼ぶべきなんらかのかたちの画人の集まりがあったことを想定させ,依然として周防が雪舟流の拠点として機能していたことを示している。雲谷派が周防長門地方に興ったことの背景に,これら有名無名の雪舟流画人たちが関与していると考えたほうが自然なように思われる。おわりに本研究の成果として,200点以上の作品の写真とデータ,模本や売立目録および古図録所載作品の写真とデータ,同時代史料及び江戸時代の画論資料の抜粋が手元に残った。今後の研究のための資料がまとまったかたちで参照できるようになったいま,あらためて研究の困難を痛感することとなったが,いまはさらなる研究の進展を期したイ寸表:雪舟流関連略年表和暦寛正五ー四六四雪舟応仁元ー四六七等本文明二ー四七〇如寄西暦画人名下限事項雪舟,すでに周防にあり。↑ 在耕祖獣題伝等本筆「山水図」,こ同図の年以前。(存耕祖獣没)↑ 正木美術館蔵萬里集九賛如寄筆梅花無墨蔵「柿本人麿図」,この年以前。出典竹居西遊集-343-
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