見れば円心様なのである。蓮華庵本は形式的には長賀様の不動であるものの顔相となると円心様の妙沢様に近いことはこれが伝来した図像の複合形態であることを強く示唆するものである。さて,周沢は臨川寺を京の十刹から五山の位置に昇らせ,そこの初代住持となるが,臨川寺はのちに臨川寺版の隆盛をみるほどに出版文化の中心地であり,現在,滋賀・浄光寺の所蔵である涅槃図の開板地である。この涅槃図には画面向かって右下に「応永壬午五/月日重開板/子臨川/中慧謹誌」とあり,本図が応永9年(1402)の開板であることがわかるが「重開板」とあることから初版はそれを当然遡ることとなり,14世紀後半と推察されるのである。とすれば,妙沢不動にせよ蓮華庵不動にせよ14世紀後半の版画大型化の遺品として,また,開板地を五山に求めることが出米るという点でも注目せねばならない。妙沢不動にしても毎日日課で不動明王を描くと画史類に記されているほど不動明王の熱烈な信仰ものであったのであるが,大阪市立美術館本のように版画にて開板となると箪画と異なり個人的な制作目的から,多数を相手にした制作ということになり制作目的か同じ図様にして全く異なってくるのである。開板普及の問題がそこにある訳である。さて,連華庵本であるが,著賛の筆者である性海霊見は東福寺の僧であることは先に述べたが,先述のように栄賀や明兆と親交があったようである。一方,東福寺は奈良・興福寺が制作する春日版や東福寺の近在にある泉涌寺の開板する泉涌寺版に並んで初期出版文化の中心地であり,従来,春日版とされているものにも東福寺版は多いとされるほど,出版の一大勢力であった。現に,例えば数多く出版された版経教典のなかに大般若経があるが,大般若経が600巻という膨大な量のために複数の刊行が混在している場合が多く,一部に春日版で一部に東福寺版をもって全600巻を構成している伝来品も多い。東福寺版と性海霊見との関係を示す事例もある。性海霊見の師である虎関師錬の著名な著述である『元享釈書』が刊行されたのが永和3年(1377)であるか,その後,僅か6年の後に蔵版所の海蔵院が火災にあい版木ともども灰塵に帰したのであるが,至徳元年(1384)になって再刻の計画が成立し,その募縁には性海霊見が中心となっておこなったとされている(注7)。以上,概略的な指摘であるが,蓮華庵本を考えるときに,版下図の問題(伝米と成-359-
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