鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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結ところが,某所より新出の与田寺版弘法大師善通寺御影が見いだされたことは望外の喜びであり,また,新たな作品として確認せねばならないものであろう。この善通寺御影は床几に座した弘法大師像と上部に眉間白奄より二条の光明を発する如来形来迎図を配するもので,鎌倉中期の学僧道範の逸話を記した『南海流浪記』に掲載される香川の善通寺本を祖影とするためこの名称が付せられており,特に香川・岡山の寺院に伝来する弘法大師御影といえばこの善通寺御影のことである。実際,香川・岡山の寺院に伝米する善通寺御影は室町初期〜中期の作例が圧倒的に多く,この時期に量産されたものと思われる。しかし,版下手彩色のものは見当たらず,彩色が施されているために版下の線が確認できないためによもや版下のものがあるかとも思われるが,今回の善通寺式御影が板めて珍しく貴重な作例であることは明らかである。さてこの弘法大師善通寺御影にも画面向かって右下に「於讃州与田虚空蔵院為報恩謝徳模敬0八祖000」との刻銘があり,下部が一部判読不可能となっているが,ここでも開板地と目的を明確にしている。弘法大師像と如来形来迎図の賦彩などから判じて制作年は室町記初期15世紀と考えられる。さて,与田寺版十二天の開板願主は増叶である。増呼(貞治5年・1366〜享徳元年・1452)については余り詳らかにできないが,讃岐薬師院(与田寺)の増恵について出家して高野山・京都で密教を学び,後に与田寺にもどり復興につとめ後小松天皇の帰依を受けた。増呼は与田寺のみならず香川・岡山の寺杜復興につとめ弘法大師の再来と称されたのであるが,浜田隆氏によると善通寺御影の一本に後の修理銘であるものの増呼が描いた旨の墨書が見いだせるという(注9)。また,伝来する善通寺式御影のなかで室町期制作のものには増叶が係わったとされるものが多い。これらのことを鑑みれば,この摺仏の刻銘には増咋の名は残念ながら確認できないが,与田寺の文字や制作の時期から考えても増叶に深く関わりのある遺品であることが想像されるのである。また,刻銘に「八祖」とあることから弘法大師像のほかにも真言八祖の御影も開板されたことも想起され,この時期の開板作業には注目できるものがあろう。本図は善通寺式御影の一遺例としても,また,室町期の版画史のうえでも与田寺版の新出作品としても新たなー作品である。以上,簡略ながら新出資料を中心に述べてきたが,仏教版画の流れには平安期〜鎌-361--

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