鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
381/475

美術批評家として1920年代末の日本の画壇に登場した。いわば日本の専門職としての美術批評家の第一世代の代表者たちなのである。それが,この三人の活動を考察のテーマとした理由である。I.川路柳虹川路柳虹が本格的に美術批評活動をはじめるのは,1919年以降のことである。当初は『中央美術』誌を中心に主に日本画団体の展評を執筆するが,その後,1925年に出版された『現代日本美術界』(中央美術社)により,川路は若手美術批評家としての地位を確立する。同書は当時の日本の美術界全体の状況を団体別作家別に記述した一種の列伝体「美術家人名辞典」であり,必ずしも川路独自の美術観を色濃く反映させた内容とはいいがたい。しかし,その簡潔で的確な個々の作家作品評は,今日でも参照に値し得るものと評価できる。そして,同書出版をひとつの契機として,川路は執筆の場を『みづゑ』や『美之國』誌等にもひろげ,日本画,洋画のみならず工芸をも対象とした幅ひろい展評活動を展開していくのである。しかし1927年から28年にかけて渡仏し,パリ大学で美術史を学んだ川路は,帰国後は日本画についての批評活動はほとんどおこなわなくなる。その主な理由は,おそらく当時の日本画界に対して,「何ら芸術的価値の問題に触れえない作品が多い」(前掲『現代日本美術界』他)と強い失望を抱いていたためと考えられる。代わって川路が主な執筆テーマとするようになったのが,フォーヴィスム以降のフランス近現代絵画動向の紹介・評論と二科会を中心とする日本の洋画団体の展評であった。そして,その際に川路が作品評価の基準としたのが,現実世界の「美的真実」をあらわした「精神としての写実」を描写の基調としているかどうかということであり(「写実の大道」『みづゑ』2541926. 4),規範となったのは,「単純な色の塊」「生動した力」「たしかに感覚そのものの創造」である「最近の」「現実主義者」マチスや,「抽象主義から具象主義に還り」「力量の偉大を示した」「新古典主義者」ピカソ,総合的キュビスムを終えて以降のブラック,そして「新しき意義に於て古典たらんとする」ドランであった(「マチス以後1■ 2」『中央美術』14-7■8 1928. 7■ 8)。とりわけブラックの評価は高く,「このソリッドな感覚こそ一つの現代人感覚である。夫れは明快であり直裁であり,不純を厭み,混乱を嫌ふ現代人的感覚である」と述べている。また,同様の理由からローランサンを賞賛しているのが注目される(「マチス以後3」(『中央美術』感覚主義の賞揚-373-

元のページ  ../index.html#381

このブックを見る