15-2 1929.2他)。いわば川路は,フォーヴィスムとキュビスム通過後のエコール・1935.10他)。さらに,新古典主義時代以降のピカソやニース時代のマチスの作風に影7 -1 1930.5)。「絵画に不変を,合理を要求することは正しい。しかしこの正しい概ド・パリの時代にあらわれた新しい具象表現を近代的な新感覚をそなえた「新しき写実」(「新しき写実と折衷上下」『アトリヱ』7-7■81930. 7■8)ととらえたわけである。そして,この近代的都会的な新しい感覚主義の具象表現,いいかえれば“具象絵画のモダニズム”こそが,日本の洋画界にも待望されるものと川路には映ったのである。事実,川路は二科展出品作のなかでも,中村節也や熊谷登久平らにより「何か新しい感覚を持つて居る」「二科モダニズムの代表」と目された島崎鶏二と,荒城季夫が「モダニズム的傾向を最も端的に表現している」と述べた岡田謙三のふたりの作品を「逸作である」として愛着を込めて評価している(「二科会評」『復興中央美術』27響を受け,強いモダニズム傾向を示していた猪熊弦一郎,脇田和らが結成した新制作派協会第一回展開催の折りには,「洋画界転換期の当来」(『アトリヱ』13-121936.11) を執筆して,「感じる方法,感じる空気そのものが過去の方法に満足しなくなったのである。一つのデフォルマッションにしても単なる理智的分析乃至総合のみでない。そこには新しい“感じ方”が出来たのである」「ここにこそ美術界の新しい希望ある曙光を見出すことが出来る」との最大級の讃辞を送っている。これに対して,「美的真実」も「精神としての写実」も表現しようとはしていないとみなした前衛絵画については,川路の態度はきわめて冷淡であった。川路は,すでに大正期新興美術運動の時期に三科会の活動を指して「批評は無用だ?」「なぜか!それは当の芸術そのものが既に芸術といふ言葉の意味する標識を遥かに越えてゐるからである」(「表現芸術より生活芸術へ」『アトリヱ』2-7 1925. 7)と批難している。そして同様の論調は,1930年代のシュルレアリスムと抽象的表現にも向けられることになる。「その理論はフロイデイスムの応用といふ以外全然独創を欠いてゐるばかしでなくそれが造形美術の表現に不能な性質を持つてゐる」(「超現実派に就て」『アトリヱ』念を誰でも一様に同じ方法で表現するとしたらそれは既に芸術ではない」(「後期立体派とプュリズム」『アトリヱ』7-6 1930.6)。このようにみると,1930年代の川路の批評的態度は,近代美術が内包する理論を正しく認識したうえでの客観的視点に立脚するものではなく,あまりにも感覚的直感的-374-
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