飾芸術,すなわちデザインと同一視して,精神性の高い“芸術”絵画よりも劣るものとする,ともすれば今日でも一般に通用している抽象絵画批判のひとつの視点を明確にあらわしたものといえる。抽象絵画についての充分な情報を持ち得なかった1930年代前半の日本の画壇に対して,気鋭の現代美術批評家・外山のこうした見解は大きな影響を与えたものと推測されるのである。外山がヨーロッパ前衛美術について誤った認識をしばしば抱いてしまう理由としては,ひとつには,先述したシャガール理解が典型的に示すように,外山にヨーロッパ留学の経験がなく,他者からの伝聞による記述を疑いもなく繰り返すということが指摘できる。そしていまひとつが,フランスを中心としたヨーロッパの新しい美術潮流の紹介者であるにもかかわらず,ドイツ語と比較してフランス語の読解能力が不充分であったという点が挙げられよう。このことが,1930年代の美術批評家・外山の業績を史的に再評価するうえで,考慮すべき問題点となるのである。とはいえ,昭和戦前期の外山の批評活動がすべて負の側面だけでとらえられるわけではない。外山は,フランスの新しい具象表現の出現(「ヌウボオ・フォービズム」『中央美術』15-3 1929, 3)やドイツのノイエ・ザハリヒカイト,イタリアのノヴェチェントなど新しいリアリズムの動向をも日本に伝える。それらは,情のフォーヴィスムと知の写実を融和させながらもフォーヴィスムとは一線を画すという「前田寃治の新写実を継承する」絵画グループ“新写実派“のメンバーや,『新洋画研究』誌主催の“新洋画展”の参加者たちに感化をおよぼしたようである(「最新日本洋画相の断面」『みづゑ』3191931.6他)。その点からいえば,フォーヴィスムとアカデミックな官展系の写実表現がいきづまり,リアリズムの概念をひろげることが求められていた1930年代初頭の日本の画壇において,外山の果たした役割は充分再評価すべき面をそなえていたと考えられるのである。III.荒城季火川路柳虹,外山卯三郎のふたりと比べた場合,ヨーロッパの最新の美術動向について,1920年代末から30年代初頭にかけての日本ではるかに正確な理解を示していたのか,荒城季夫であった。荒城は,はじめ自身の勤務先である日仏芸術社が主催する「佛蘭西現代美術展」の広報担当者として画壇に登場した(「春の佛蘭西展について」『みづゑ』2251926.5他)。その後,「現代フランス画の研究」(『みづゑ」2831928.9), 現代美術批評の祖型-377-
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