鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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1936.3他)。それは,新制作派協会の画家たちが犯した誤りと同一の性格のものといえうに思われる。つまり荒城は,「戦時体制」ひいては戦争そのものをも「非常時」の“健康な”近代的現実と誤認してしまっているのである(「現代美術学生論」『みづゑ』373よう。それとともに,荒城を“戦争画”推進へと向かわせた背景として注意しておく必要があるのが,荒城がフランスをはじめとする欧米諸国での美術家に対する国家援助を羨望視するとともに,「美術家は国家に於いて文学者以上に上位の席を占める」ベきと考えていたことである(「理想と現実」『みづゑ』4141939.6)。あるいは,ここには,文学にコンプレックスを抱く美術批評家の社会的な地位向上を願う倒錯した想いも反映しているのかもしれない。確かに,戦争を近代的現実ととらえることは間違いではない。また,美術に携わる人々の経済的社会的な優遇を求める考えも正しい。しかし,荒城が明らかに誤っていたのは,戦争を“健康”と思い込む「征服者」的感覚(「時評めいたもの二題」『みづゑ』3801936.10)と,国家の経済的援助が文化的統制,すなわち表現の束縛と表裏一体であることに気づかなかったことである。それは,政治的な無知以外のなにものでもない。そして,このことは,今の時代に美術批評に携わる人々もまた,常に陥る可能性をそなえた罠なのである。その意味で,荒城は,川路柳虹や外山卯三郎以上に,良くも悪くも現代美術批評家の祖型であったと評すことができるのではないだろうか。-379-

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