形象は中心軸をはさんで,厳格なまでの左右対称の関係に置かれているばかりでなく,色彩や細部の意匠の対称性に配慮するなかで,各個を単に並置するのではなく相互に有機的で緊密な繋がりを持つような群像の構成を行っている。このことは,本繍仏の下図が,舶載された粉本から得た各モティーフを組み合わせて作られたものではなく,はじめからまとまった一画面として構想され,描き下された,オリジナルに近いものであることを推測させる。この図像構成を金堂大壁の壁画と比較すると,左右対称の厳密さ,奥行き感や中尊を際立たせる求心性の実現の点で一線を画しており,前掲の説のように壁画を参照しつつ描いたという状況では生まれえない画面であることは明らかである。また中尊の背兌れ付きの宝座や天蓋の意匠は,金堂壁画に見られるものよりも敦煙の初唐期壁画の作例に近く,より本来の形を示す点,標絹配色が金堂壁画では二,三段であるのに比べ三段から五段認められる点も,本朝作の壁画に先行することをうかがわせる。さらに,後世の拙劣な修補時に画面各所に誤って貼りこまれた断片を観察した結果,当初の縁取りと思われる波状植物文帯を復元することを得たが,その意匠もまた初唐後期の様式を示すなど,繍仏の各モティーフはいずれも七世紀後半から八世紀初の中国の作例に最も近い。技法上最も特徴的なことは,地間の余白部分さえ鎖縫いの針目によって充填された総縫いである点で,図様が複雑に交錯する部分でもモティーフの形状や凹凸にあわせて,各部各様の立体感を表現した巧みな面の構成がなされていることは,他に類を見ない。古記録にある我が国七,八世紀の大寺院の繍仏は,例えば高二丈三尺七寸,広二丈二尺四寸(大安寺資材帳),高三丈,広二丈一尺八寸(薬師寺縁起)のように勧修寺繍仏の十五倍以上の大きさにのぼるが,これが総縫いであったら重量の上からも随時の懸け外しの困難は想像され,自重に耐ええたかどうかさえ疑われることから,おそらくは敦煙将来繍仏や法隆寺献納宝物として伝わる一連の天人繍仏のような部分縫いであったと思われる。こうした余白を生地のままのこした部分縫いであれば,下絵さえ用意されれば素人であっても根気よく施繍することによって完成させることが可能であろうが,下絵には何らの指示も無いはずの地間をも縫い詰めて,みごとな地紋を生みだすことは,ただ唐からもたらされた絵画を手本とするだけで可能であったとは思えない。きわめて熟練した職人集団によって,下絵から一貫して制作されてはじめて実現できる表現だと想定せざるを得ないのである。しかも,敦燻将来繍仏と比較―-31 -
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