際現代美術展覧会」俗にアーモリー・ショーと呼ばれたヨーロッパ美術とアメリカ美術による,空前の規模の展覧会の影響は,国吉に対してまでも及んだ。彼自身はこの展覧会を見逃しているのだが,彼の周囲にいた画家,学生たちにとっては,大変大きな反響を及ぼし,熱心にこの展覧会に関する議論が行われた。また実際,この展覧会を契機として,ヨーロッパからアメリカヘ渡ってくる画家たちもでて,マルセル・デュシャンのようにアメリカでの滞在が,その画家にとっても大きな意味を有するというケースまで誕生する結果となった。またライオネル・ファイニンガー(LyonelFeininger, 1871-1956)を始めとして,アメリカ生まれのキュビストたちの一部は,ヨーロッパから新しい芸術思潮を持ち帰ったわけだが,そういった画家たちの活動が広く社会の中に認識されるようになったという点でも,アーモリー・ショーは大いなる意義をもっていたといえる。ちょうどこの頃,すなわち1920年代の国吉作品に見られる特徴は,当時の新進画家たちの多くと傾向を同じくする,植民地時代から受け継がれてきたアメリカの民衆芸術に着想を得たアメリカン・プリミティヴィズムと称される性質にあった。これを一言で表現するなら,アメリカ独自の絵画の実現を夢見た若い画家たちが,植民地時代の民衆の遺物に目を向け,新しい美術を生み出そうと企てた運動ということになる。これはアーモリー・ショーで目の当たりにしたアメリカ美術の現状に対する彼らなりの解答の一つであった。確かにこの時期ニューヨークには,1825年設立のナショナルアカデミー・オブ・デザインを筆頭にして,ヨーロッパ,とりわけフランスのアカデミズムに範をとった極めて厳格な美術学校が画壇の主導権を掌握していた。これに対する動きとして,国吉を含む若い画家たちの活動があったと理解できる。国吉のこの頃の作例には,同時に先に述べたキュビスム以降のヨーロッパにおける新しい美術思潮が加味されているのは明らかである。<オガンキットの入江>〔fig.2〕を始めとするメイン州オガンキットで制作された一連の作品がこれにあたる。ただ彼がとった方法は,他の画家と比較すれば,より散文的で物語性に富んだものだった。このことはたとえノスタルジックな風景画を制作するという場合にも,他の画家たちは従来の西洋絵画のジャンルの概念に囚われつつ風景や静物や室内を描き続けていたことと比較するならば,国吉の作品は,全体の構成面では纏まりを欠き多少の難があるものの,非常にユニークな方法を取っていたことになる。これは彼がヨー-383-
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