§ 3.ケネス・ヘイズ・ミラーを巡って続く30年代には,彼の画家としての世評を最も高めた物憂げな婦人像が登場することになる。酒場などで気怠い雰囲気が漂う表情の彼女たちは,モデルを使い始めた国吉の腕のさえと相侯って,フォルムの点では20年代のプリミティヴな描写は跡形もなくなっているが,主題の扱い方としての象徴的な表現方法などは,変わってはいない。描かれた女達の思わせ振りな表情がまさにその例である。しかし,彼独特の円弧を描きながら引っ掻くような描法に代表される油彩画技法は,この時期になってかなり込み入った精緻なものとなっていたし,象徴の手法に関しても,単純な初期の直接的な比喩的表現から,やや間接的なものとなり,自分の経験を真向から画面に持ち込むという方法は取らなくなる。その分彼の作品を読み取るには,多くの情報を必要とするようになるが,必ずしもこれが全て彼の意図するものではなく,時に遊びの部分も含まれるといった状況が生まれてきた。この原因として第一にあげられるのは,彼の作品の売買される機会が増えてきたことである。決して彼は筆の進みの速い画家ではなかったから,制作状況の変化は,作品の質を左右するほどに深刻なものになっていたと想像される。簡単にいって作品が売れ始めたのである。このため国吉自身も売れ易い作品を制作し始めたと考えられる。このため彼のこの時期の作品の中には,以前のものには見られなかった散漫な印象を与えるものも含まれている。だがそういった悪い要素ばかりでは決してなく,先にも触れたか,フランスで学んだモデルの使用であるとか,主題への集中の仕方であるとか,この時期は彼の作風の成熟が行われた時期として考えることもできるのである。このことは<祭りは終わった>以降の作品の一連の言葉遊びの性質に深い結びつきをもっているように考えられる。そこで先に,国吉の初期の画風を説明する場合に「1920年代当時の新進画家たち」という意味の表現を用いたが,彼らのバックボーンはいかなるものであったのか。ここから検討してみる必要がある。そこで遡って19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカ美術の全体像を把握する必要が生じてくる。この時にまず考えねばならないのは,国吉が教えを受けたミラーという画家の周辺からであろう。ミラーはニューヨーク州中部の都市オナイダの生まれで,ケニョン・コックス(Kenyon-385-
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