いるといえよう。こういった彼の言動は,書簡や彼自身の警句など集めた文集であるこのミラーとヘンライ,二人の画家は,国吉の初期あるいは,30年代の制作の性質の源となったばかりではなく,これから後の晩年の傾向をも決定づけている点に注目したい。本稿の最初にも触れたが,彼の作品は具象的表現を出ることはなかった。これは彼の師であった二人の画家にも同様にいえることで,彼らのエ夫は,作品の主題あるいは内容の扱い方のエ夫に他ならなかった。そのため彼らはアメリカン・シーンにこだわり,ニューヨークという目まぐるしく変転する大都会の光景を追うことになったのである。それは,ジョン・スローン(JohnSloan, 1871-1951)のように極端な左翼的な思想に支えられた都会の労働者階級に目を向ける表現や〔fig.5〕,ベン・シャーン(BenShahn, かったものの,極めて社会的な視線を投げ掛けていたことには違いがない。そのことは,彼が第二次大戦中に,アメリカ政府の宣伝ポスターに手を染め,日本軍の残虐な行為を告発する作品を残していることからもうかがえよう。〔fig.7〕とすれば<祭りは終わった>以降の作品,例えば<鯉のぼり>〔1950,国吉康雄美術館蔵,fig.8〕や<東洋の贈り物>〔1951,個人蔵,fig.9〕における彼独特の私的な担界の描写はどの様に説明されるのだろうか。20年代から30年代は,ダニエル画廊との契約を皮切りに,彼が画家として多くの注文をこなさねばならなかった時期である。そのため婦人像が数多く描かれ残されたのだといえる。ましてや大戦中の彼の制作は,アメリカ政府からの制約を受けざるを得なかった。こういった様々な彼に課せられた制約から解き放たれた状況を<祭りは終わった>は高らかに歌い上げているのではなかろうか。とすればこそ,彼がこの作品の制作途中で,従来制作を行ってきた彼独特な静物画から,一種異様ともいえる,風景を取り込んだ静物表現へと入っていったと考えられる。まさに,1937年着手された<祭りは終わった>が制作途上で大きく構想が膨らんで,後の作品の傾向を決定づけた。この作品はその大きな画期点にあったことはいうまでもない。"The Art Spirit (1923)"を参照すれば,ほぼ把握することができる。§ 4.国吉晩年作品の意味30年代までの国吉に関しても,アメリカン・シーンを追いかけたことに違いはない。1898-1969)のように社会告発を行うジャーナリスティックな表現〔fig.6〕には陥らな--387-
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