すると図相と繍技の卓越は隔絶しており,おそらく初唐の中央の専門工房の作品であると想定してよかろう。ところで,南北朝時代以来繍仏が作られてきた中国では,唐代にますます盛行したらしく,制作を語る記事は少なくない。「全唐文』には繍仏の賛が十七編収録されており,そのほとんどが亡者追善のために女性が発願したものである。だが,特定の個人の追善供養のために作られたそうした繍仏が舶載される状況は考えがた<,勧修寺繍仏の制作にはまたほかの事情を想定しなければならない。そこで注目されるのは,『天台宗延暦寺座主円珍伝』にある温州内道場供奉の徳円座主が円珍に宛て「則天皇后縫繍四百副之内極楽浄土変一鋪長二丈四尺広一丈五尺」等を贈ってきたことを伝える記事である。ここでは則天が四百副もの繍仏を作らせたことが語られているが,主題には極楽浄土変以外のものもあったらしく,『歴代法宝記』の智読禅師(長安二年(702)没)の伝に,則天が敬重する智読の帰郷に際して弥勒繍像を賜ったことが見える。さらにまた,正倉院から流失した日名子文書のなかに造菩薩願文巻第八垂挟二年一二月四日大唐皇大后奉為高宗大帝敬造繍十一面観世音菩薩一千鋪願文ー首という一断簡が見出される。武則天が亡夫高宗の追善のために一千鋪に及ぶ十一面観音の繍仏を作ったことを伝えるもので,一代のうちにかくも大量の制作を行ったには,高度に専門化し組織立ったエ房の存在が不可欠であったに違いない。宮中の刺繍工房が衣類や調度等以外に繍仏を制作することは,いずれの王朝においてもなされていたと考えられ,『弁正論』巻三には隋文帝時代の様子を伝える文言があるが,高宗朝から武周朝にかけての繍仏制作の数量の厖大さは突出しており,組織の大きさと専門性が推察されるのである。勧修寺繍仏はこうした初唐の官営繍仏工房とでもよぶべき組織で作られたものという蓋然性は高いと思われる。制作地と制作年代に異説が多いのに比して,繍仏の主題については明治四三年の国宝帖以来一貫して釈迦説法の図であるとされてきた。国の指定名称も「刺繍釈迦説法図」であるが,とりわけ「霊鷲山における法華経説法図」あるいはまた「霊山浄土図」とする解釈はほぼ定説となっていると言ってよい。しかし説得性のあるその根拠が提示されたことはなく,筆者はこれを疑問とする。-32-
元のページ ../index.html#40